相撲は神社に伝わる最高の格闘技ではない(朝青龍「泥酔致傷騒動」を見て思うこと)

 「5度目の厳重注意、これで終わっていいの?」「親方も相撲協会も、横綱に完全になめられている。」「もっと早い時点で厳しい指導をしておくべきだったのでは。」といった意見が目につきます。でも、「今の朝青龍に、いったい誰がお灸を据えられるの?」という疑問に答えられる人が、相撲界には見当たらないようです。

 横綱朝青龍の姿を見ていて感じるのは、慢心・増長・逸脱・暴力性の発露です。これを親方や相撲協会が放置してきたことが、今の状況を招いたと思います。早い段階でお灸を据える必要があったでしょう。この問題を考えるときに重要なのは、人間は自分の意思で心の全てがコントロールできるわけではない点です。深層心理の次元で慢心や増長が起こっている場合は、本人の理性で抑えきれないこともあります。朝青龍は土俵際で勝負がついたあとも、さらに背中から卑怯なダメ押しの意味のない一撃を加える行動を繰り返していました。あれは意識してやっているのではなくて、深層心理の次元で慢心から増長が生まれて逸脱した暴力性が、無意識のうちに現れていたと見るべきでしょう。問題視されたので、本人も分かってはいたのでしょうが、悪い衝動をコントロールすることに失敗していたようです。人の性根の悪さというものは、指導者が心を鬼にしてでも骨身に染みるまで懲らしめて、本能的に悟らせるところまで修行させないと、改まらないこともあります。それができない甘えた体質を作ってしまえば、相撲界の心技体の教えは、形骸化したも同然です。

 空手の有段者が暴力を振るえば、凶器を用いたとみなされるのと同じように、暴力を振るう力士の体は、一般の人から見れば凶器を振り回すに等しい危険性を持っています。土俵の上ですら無意識に、慢心・増長・逸脱・暴力性の発露が認められる力士が、泥酔状態になって自制心を失ったらトラブル必至ということは、予測できて当たり前です。朝青龍は、昨年3月の春場所中にも、大阪・北新地のクラブで居合わせた客に暴行を働いて、示談で解決していると報じられました。力士を管理する義務がある相撲協会が再発を防く有効な対策を打ち出してこなかった点を重視して、文部科学省などが適切な指導をしていく必要があると感じます。『高砂親方「オレは悪くない」はしご酒4時間30分』スポーツ報知2010年1月30日http://hochi.yomiuri.co.jp/sports/sumo/news/20100130-OHT1T00027.htmといった報道を見る限り、監督責任を負う者達に反省の色が微塵もなく、第二第三の泥酔致傷事件が発生してもおかしくない状況だと感じます。


 現在の相撲界の乱れを見て、「相撲は日本の国技」という、今までの評価や認識を考え直す時期に来ていると思います。相撲は神社の神事として伝承されてきた格闘技ですが、じつは神社に伝わっている最強の格闘技の体系ではありません。このことを理解するには、まず、天皇や公家の身辺を警護する人々は、二種類存在して、警備が二系統に明確に分かれていた時代があったことを認識する必要があります。屋内で直接身の周りのお世話をしながら警護する人々と、屋内に立ち入る資格を持たない、屋敷の塀の内外を見回って警護する人々に、厳格に分かれていたのです。身分の低い屋外警護の人々が伝承した格闘技が元になって、今の相撲が生まれました。相撲のルーツとして歴史学者は『古事記』に記されている手乞い(てごい)の存在を指摘します。「手をつかんで、ひしいで投げた」と記述されているものです。ところが残念ながら、現在の相撲には、この系統の投げ技は伝承されていません。手乞いの技の体系は、御留め流(門外不出)の御式内の作法(殿中の作法)の体系の一つとして、うちの一族が管理する幾つかの神社に伝承されています。その他には、武田信玄の家系(清和源氏)にも、幕末まで伝わっていたようです。会津藩武田家に連なる神職が伝承していたものを、明治維新以降に、武田惣角大東流合気柔術(やまとりゅうあいきじゅうじゅつ 現在の漢字表記は間違いで正式には大和流と書く筈)という名前で再編して普及に乗り出しました。現在の合気道は、その流れを受け継いだものです。

 相撲と合気道は、ともに日本の神社に古来から伝わる格闘技ですが、見比べると、技の体系がまったく違います。相撲は、張り手や褌をつかんで投げる、力任せの技が中心なのに対して、合気道は、軽くお手を拝借して、力に頼ることなくスマートに投げて倒す技が中心になっています。古事記に記された、お手を拝借する手乞いの技の体系が、相撲と合気道のどちらに該当するかは、誰にでも分かりますよね。殿中に上がって直接天皇や公家の傍に控えた人々が使っていた、効率の良い手乞いの技と、殿中に上がることが許されなかった人々が使っていた、力任せで効率の悪い相撲の技と、どちらが格が上か歴然としていると思います。

 神社に伝わる武術の体系は、御式内の作法に含まれる、手乞いや失脚(しっきゃく 足技)や印地(いんじ 投石技術)や微塵(みじん 3つ又の分銅鎖)や打根術(うちねじゅつ 矢の形の紐が付いた投げ槍を使う技術)などを総合したものです。神人(じにん)と呼ばれる神社の雑用を任されていた人々は、これらの技の体系のほとんどを学ぶことが許されていませんでした。寺の僧兵と神社の神人は、ともに武装勢力だった時代があって、乱暴狼藉や強訴が多かったことが、古い記録に残っています。神職の間で伝承されてきた御留め流の作法は、ほとんど一般の人が目にする機会はないと思います。親戚が管理している企業グループ傘下の警備部門を担当する会社では、相撲界に一時身を置いたことのある人を少数雇用しています。しかし、親戚の道場で幼少時から本格的に古武術を習得したスタッフに対して、相撲で鍛えた人達は手も足も出ないのが現実です。身長176センチ体重80キロちょっとしかない私でも、体格のいい元力士の男性達を、簡単に仰向けにひっくり返せるのです。手乞い(合気道)の技というのはそういうものです。合気道の神様と呼ばれた塩田剛三の生前の映像がユーチューブにアップされているので、何本か見れば、力や体格の差は関係ない、相撲とは比較にならない高度な技の体系が存在することが分かると思います。塩田剛三は身長155センチ体重45キロしかない小柄な人です。合気道の組手では、体重があることは不利になっても有利には働きません。力技が中心の相撲の力士のように体脂肪がついた無駄に重い体は、非常に不利なハンデになるのです。研ぎ澄まされた瞬発力と柔軟性を備えていることが、何よりも重視されます。私が触れた瞬間、脱力状態になって、自分から倒れてしまったり、いいように運動神経を支配されて、体を操られてしまう人が少なくありません。

 合気道の神様と言われた塩田剛三お爺様に、私が10歳のときにお会いして、手かざしで体を癒してさしあげたことがあります。そのあと数年経たないうちにお亡くなりになったと聞いたので、私の手で親戚の道場の神棚に神様としてお祭りしました。一度技を見聞きすれば脳内のミラーニューロン上に動きをコピーできるので、塩田剛三の神技は今も私達の心の中で生き続けています。


 合気道の技について研究した物理学者の保江邦夫(専門は量子脳力学)は、『武道vs.物理学』という著書などで、学者らしい視点から合気道の原理を説明しています。私はこの方の説明では、気功や遠当てといった、合気を取り巻く全ての現象を説明しきれないので、『量子脳理論とポラリトロニック・デバイスhttp://d.hatena.ne.jp/mayumi_charron/20100131/1264908499の中で言及した原理によって、術者の脳と被術者の脳が互いに電磁的に影響を及ぼしあってシンクロ(同調)する現象が、エンパシー(共感 精神感応)の本当の原理だと考えています。でも、私の説は論文の形で発表する予定がなく一般に認められているわけではないので、ここでは有名な保江邦夫の説を用いて説明しておきましょう。

 彼の説明が正しいなら、合気道の技の原理は「自分の脳で発生させた生体電流を、相手の体に微弱帯電させて、脳神経の機能を停止させ、筋肉に力が入らない状態にする」ことになります。つまり、触れた瞬間、ターゲットの脳の運動神経の機能が失われて、力が入らなくなって、一瞬で倒れるということです。これは、実際の技の効果と一致します。合気道には、力が入らなくなるだけでなく、くっつく系統など、術を受けた人の身体の動きを支配する技があることも、よく知られています。術者の体に、技をかけられた人の体が軽く触れているだけなのに、くっついて離れられなくなる形の捕縛術が存在するのです。他人の体の動きをコントロールする現象は、「脳の運動神経の意識的な活動を、小脳の無意識の神経の活動に同調させた結果、術者と被術者の脳の間で生体電流の微弱帯電を介したシンクロ現象が起こる」ことが原理といった説明がされていたと思います。この技を使いこなすには、自分の脳をコントロールして必要なパルス信号を出力して、相手の脳と瞬時にシンクロさせる、高度なエンパシー能力が要求されます。体の力みを無くして、精神の内面を無の境地まで持っていく必要があります。雑念だらけの状態で余計な生体電流を出力していては、技を使うことは出来ません。つまり、心技体の調和なくして使えない技、ということです。もしも、保江邦夫の説が間違っていて私の説が正しい場合でも、求められる精神面の在り方や技をかけるコツなどは、まったく同じです。

 私は中学・高校と風紀委員をしていたので、ルールを守らない人達の身柄を日常的に拘束していました。人一倍勘が働いて、悪いことをしている現場に自然に足が向いて居合わせてしまうことができるので、一般の風紀委員とは摘発率が違っていたようです。壁の向こうの見えない位置にいる人がやっていることが、それとなく気配で分かってしまうのです。隠れてタバコを吸っていても、カツアゲしたお金をこっそり数えていても、全部分かっちゃいます。彼等の拘束には、ストール(肩に掛ける布)やボーラ(狩猟用投擲アイテム)を用いていたのですが、軽く相手の体に巻きつけただけで、こちらの命令する通りに体が動く状態になるので、きつく縛る必要はありませんでした。これを耀姫の霊の力と勘違いして、開放されると土下座して私に向かって手を合わせて、震えながら拝む人もいました。私は神社の娘で神憑りの神事を担当している斎女(巫女)ですが、神様の霊なんて信じていません。神社に祭られている耀姫などの神々に神憑りした状態で、手乞い(合気道)の技を使うのは、脳をより確実にコントロールするための技術的な工夫にすぎません。神憑りは自己催眠がその原理で、トランス状態(変性意識状態)と呼ばれる脳の機能が高まった特殊な精神状態に移行すると、脳のリミッターが解除されるので、強力な技が使いやすくなるのです。私が降ろす神々の正体は『リニアとスパイラル 西洋型と東洋型の思考様式の違い』http://d.hatena.ne.jp/mayumi_charron/20100125/1264413658で解説した、仮想の人格のイメージにすぎません。霊なんて非科学的なオカルトの存在を仮定する必要はまったくないのです。でも、神憑りによって顕現した耀姫の命じるままに自分の体が動く現象を体験すると、自分の体に耀姫の霊が乗り移って動かしていると本能的に錯覚する人が少なくないようです。意識上では、神様なんて実在しないと思っている人でも、神秘的な体験に出会うと、深層心理がひとりでに反応して、平伏低頭して両手を合わせて拝む動作が自然に形になって現れるのですから、人間の心は不思議なものです。いずれにしろ、神社に祭られている生き神様の私の神威に触れて、改心しますと両手を合わせて神前の誓いを立てることは、人格矯正や更生上、とても良いことだと思います。


 私が通った私立の学園は、親戚が経営しているものでした。中学生になって早々、隣接する高校の不良グループに真っ先に私が目を付けられたことを知った理事達が、青くなって、高校の警備担当者達に指令を出したようです。ところが、たかが高校生の不良グループが、神社に祭られている本物の生き神様相手に、粗相などできるはずがないと信心深く考えたらしく、「お嬢を特別扱いするつもりはないよ。逆に耀姫様に改心させてもらったほうが連中のためになる」と突っぱねたそうです。うちの一族の信仰心が厚い年寄りの警備員にそう言われても、耀姫の神威を信じない親戚の理事達は、高校の生徒会長に対して、風紀委員の私達が不良グループと正面衝突する事態になる前に、有効な策を講じるように指令を出しました。策といっても高校生の子供が考えることなので、程度が知れています。構内腕相撲大会を開いて、優勝者に記念の楯と、副賞として美少女から花束と頬へのキスの進呈を受けられる、という企画が持ち上がりました。困ったことに、あの生徒会長が指名した副賞のキスをする役の女の子は、この私でした。「栄光のキスを手に入れるには、優勝者が私と腕相撲して勝つこと」という条件を付けることで、乗り気でない私を説得して了解を得る方向に、強引に話を運んでしまったのです。

 神社に伝わる神憑りして託宣する神事を担当しているところから、「神憑りさん」という異名を持つことをよく知っていた、空手部や柔道部の人々は、大恥を掻くのを避けて「畏れ多くて手など触れない」ことを理由に、ほとんど参加を辞退しました。情報が回らなかった相撲部の高校2年の男子が優勝しました。体重120キロを超えるその人と腕相撲したのですが、開始と同時に彼の体が崩れて私が勝ちました。勝負が決まった瞬間、「それは力比べになっていない」と空手部の主将達が指摘したので、彼は女に負けた不名誉を被らずにすみました。「腕相撲大会で優勝した高校生が、合気道の技をかけられて、中一の風紀委員の女子に負けた」という話が、その日のうちに広まった結果、不良グループは私達風紀委員に手出しできなくなりました。生徒会長の策は成功したのですが、「可愛いくせにあいつはルールに厳しくて怖すぎる」という認識が定着して、中学・高校と男子達から敬遠され続けることになりました。お爺様は「悪い虫がつかなくてよろしい」と、生徒会長を高く評価したようです。


 話を戻して、相撲界に対してお灸を据えるには、日本の神社に伝わる格闘技には二種類ある事実を示すだけで、十分だろうと思います。一般公開されている相撲は、大衆向けのものにすぎず、御式内に含まれる秘伝とは、レベルも必要とされる素養も大きく違います。古事記に書かれた技の体系が、相撲とは別系統で伝承されてきた事実は、たとえ手乞いの技を目にしたことがない人々でも、現在の合気道の技の体系を観察すれば一目瞭然でしょう。今の相撲界が、奢り高ぶって酒に酔って人に危害を加えるような不届き者を育ててしまい、まともに管理できずにトラブルを再発させる問題性を示して落ちぶれていくのを見るのは、残念でなりません。「最高の国技」「日本の武士道の精神を継承している」などと主張しても、信じるのは無理がある情けない状況になってしまったことを、非常に残念に思います。子供の頃、千代の富士が一番大好きなヒーローで、あんな人のお嫁さんになりたいと思って憧れたこともあったのです。時代は変わったと思います。これ以上相撲界の内容が劣悪化するようなら、「神社に伝承されてきた最高の国技は相撲ではない」「日本の武士道の精神を正しく継承しているのも相撲ではない」と糾弾して、その地位を健全な状態にある合気道などに譲り渡すように、日本の格闘技界の認識や取り巻く環境を塗り変えていく必要があると思います。本当にそうなってもいいのでしょうか。

 相撲は、昔々乱暴狼藉を働いていた神人達が用いていた、レベルの低い力任せの格闘技と、私は教わってきました。一族が伝承してきた、本格的な心技体が伴わなくては扱えない高度なものとは、まったく違う印象を受けます。大げさではなく本当のことですが、社家が伝承する手乞いと、武装した神人が伝承していた相撲の、最も大きく異なる点、両者の技の体系が歴然と線引きされて混ざり合わない決定的な理由は、技を用いるときに、本当に心技体の調和を求められるかどうかにあるのです。手乞い(合気道)の技は、呼吸を整え、雑念や体の力みを捨て去って、精神を無の状態にすることが基本です。体に不必要な力が入っていると、それだけで脳から生まれる信号が乱れて、技がうまく使えなくなります。実戦で、敵の攻撃を受け流しながら、体を力ませないように注意して、平常心や集中力を保ち続け、技をかける瞬間にエンパシー能力を発揮して、相手の脳に干渉を及ぼしてシンクロ状態を作るには、かなりの精神力や忍耐力を要求されます。その点、相撲は力技がほとんどを占めるので、心技体の正しい在り方といったものは、技を出すときには要求されません。だからといって、精神性を無視してただ強ければそれで良い、伝統的な日本の武士道の精神など必要ない、という不心得者の理屈がまかり通っては困ります。奢り高ぶって酒を飲んで暴れる者を、まったく制止できないようではいけないと思います。

 もしも、江戸時代に、手の着けられない増長した乱暴者の力士が現れたなら、手乞いを極めた社家の者が相手をして、上には上がいることを示して、嗜めたり諭すことが出来たでしょう。今は時代が違うので、簡単に異種格闘技戦が出来ないことが、お灸を据えて事態を改善する機会を奪っていると感じます。御式内の作法として神社に伝承されている、手乞いや失脚の足捌きで拘束する技を使えば、横綱朝青龍といっても、ただ力任せに動き回るだけの大柄な武人にすぎませんから、あの程度の動きしかできない鈍重なレベルなら、正直余裕で勝てると思います。力士の、足腰の筋肉の出力に対してあまりにも重すぎる体重は、合気道の技の前では、体の動きを制限するただの錘の意味しかありません。女相手に、失脚の足捌きを受けて、触ることすら出来ずに簡単に仰向けにひっくり返されれば、目が覚めるかもしれません。出来れば朝青龍が若かった十代の頃にそのような体験をして、日本には、相撲以上に高度で神聖な、精神的鍛錬を必要とする格闘技の体系が存在する事実を、正しく認識していれば、今日のような慢心は生まれなかったかもしれません。

 私達が本物の手乞いの技を実演して、武人の生きる道を示して教え諭す機会を持てないのは、もどかしい限りです。うちの一族が管理する神社にも土俵がありますが、いくら塩で清めてあるといっても、汗が染みこんで水虫菌(白癬菌)の残骸がうようよしていそうな場所に、私達が裸足で踏み込んだり、御留め流とされる技を披露することは、おそらくお爺様がお許しになりません。でも、世の乱れを正して人心を鎮めることは私達の務めなので、必要とあれば御先祖様達は、天狗のお面などを着けて神楽を舞って心を鎮め、御留め流の技を必要に応じて用いてきたと思います。その心を受け継ぐ私達も、時代に即した何か出来ることをしなくてはならないのかもしれません。

量子脳理論とポラリトロニック・デバイス

 私が最近どんな研究に興味を持っているのか、できるだけ一般の方にも分かるように丁寧に書き進めようと思っていたのですが、どうやら、中学・高校の子供でも読めるように、易しく書くことが難しいテーマのようです。難解な言葉が並ぶ文章になっていると思います。面白い研究をやってるね、ぐらいに思って、読み飛ばしてください。

 巷では、ブレイン・マシン・インターフェイス(人の脳とコンピューターを繋ぐ機械)の入力装置として、8の字コイルの電磁石を用いた、経頭蓋磁気刺装置が注目を集めています。この装置を使っていろんな研究成果が得られていますが、頭の周囲に設置できる電磁石の数に物理的な限界があるため、脳に入力(インプット)できる信号が限られています。脳細胞の数は、一説によると一千億個もあるなんて話もあります。数多くの神経細胞に対して、意味のある情報を外部の機械装置からインプットしようと思ったら、もしかすると億単位の数の電磁石が必要になってくるかも? という雲行きなのです。それはいくらなんでも、物理的に不可能と思って、最初から諦めてかかっていたら、研究は前に進みません。私の父にオネダリして検討してもらったところ、ポラリトロニック・デバイスが脚光を集める可能性が見えてきました。

 この装置について解説するには、まず、ポラリトンとは何かを説明しなくてはなりません。一般に光はフォトン(光子 光の粒子)と呼ばれることがあります。フォトンは、アインシュタインの光量子仮説から生まれた言葉で、光の粒子性から仮想されている、あくまでも仮説の上の空想の存在です。この宇宙には、物質がまったく存在しない完全な真空になっている場所はないと考えられています。したがって、星々の間の空間を伝わる光は真空中を伝わっているわけではなくて、希薄な電離した状態(プラズマ)のガスの中などを伝わってきているのです。光のエネルギーの波が物質の中に入ると、物質を構成する原子などの微粒子が、影響を受けて波打つように揺れ動きます。光の波と物質の波が、お互いに電気と磁気の力のやり取りするため、波が混ざり合った状態になって、エネルギーが伝わっていきます。その影響で、波の力が弱まったり、屈折したり、伝わる速度が遅くなったりするのです。このエネルギーの波は、波動性の他に、粒子のような振る舞いをすることがあります。光と物質が混合した状態の粒子をイメージすることができるのです。この仮想の粒子は光子(フォトン)ではなく、ポラリトンと呼ばれています。ここでは分かりやすくするために、仮に光物子(ポラリトン)と書くことにしましょうか。

 光の粒子と物質が混ざった状態のポラリトンは、混ざる物質の状態の変化に応じて、伝わる速度が早くなったり遅くなったりします。この現象をうまく利用すると、光物子(ポラリトン)が物体の中を通過する速度をコントロールして、信号を制御できることになります。液晶は、光(本当は光物子)を通したり通さなかったり、という制御ですが、ポラリトロニック・デバイスは、光物子のパルス信号の伝達速度を変えるので、見かけ上は、光物子(ポラリトン)の状態で光の信号を物質の中に一時的に閉じ込めたり、取り出したり出来ることになります。このことに最初に気付いたのは、ハーバード大学の物理学科と天文学科の2つの研究チームで、273.15度にまで冷やしたナトリウムなどのガスの中にレーザー光線を当てるとポラリトン(光のパルス信号)の伝達が速くなり、レーザー光線を当てないと伝達が遅くなる基礎実験などによって、光の信号を物質の中に5百から千マイクロ秒保存できることを、2000年から2001年にかけて明らかにしたのです。本当は、この実験がネイチャーなどの科学雑誌で紹介される前から、気体をプラズマ化する研究を通して、すでにポラリトロニック・デバイスの開発は進んでいたのですが、非公開の産業機密の話をここでしても仕方ないので、科学技術史上は、この年に論文が世に出て、量子コンピューターの開発に応用できるのではないかと話題になった、ということにしておきます。


 さて、このポラリトロニックの技術と、プラズマ化した機能性流体を制御する技術を組み合わせると、微小な電磁石を、散逸構造生成によって機能性流体の中に、無数に規則正しく発生させて、脳を磁気刺激することが可能になってくるのです。そうすると、最初に書いた、経頭蓋磁気刺装置を頭の周囲に億単位の数配置して制御することも、夢ではなくなりそうなのです。億単位の数の電磁石なんか作れるわけがないと思う人も多いでしょうが、手作業や工作機械で作っていくわけではないところがミソです。多細胞生物はこれと同じことを実現しています。人間の体は、散逸構造生成によって、億単位の細胞を自己組織化することで成り立っています。散逸構造生成は、なにも生物だけの専売特許ではなく、人の手で容易にコントロールできるありふれた物理現象です。簡単な例は、お味噌汁の中や太陽の表面に生まれるベナール対流の模様などの形で観察することも出来ます。エネルギーと物質の代謝サイクルを適切に構成していけば、望みの散逸構造を一気に大量に生成して、自己組織化させて、制御することが可能になるのです。

 ここまで脳に対して磁気刺激を与えることを中心に書いてきましたが、じつは人間の脳は、電磁波(光)に反応する性質を持っていて、いろいろ入出力可能ではないか、と考えています。人間の体は不思議なもので、掌のツボなどを押して刺激する代わりに、ツボに弱いレーザー光線などを当てても反応します。強い光なら手の表面の温度が上昇するので、刺激を感知出来て当たり前です。でも、熱を感じないようなレベルの光の刺激に対しても、反射ゾーン(ツボ)に対応した反応が見られるのです。目のない単細胞生物でも、光が来る方向に移動する走光性を示すので、人間の体の細胞が光にまったく反応しないってことは、逆に考えにくいと思います。人間は足でも光を感じることができて、適度に太陽光線を当ててやると、免疫機構に良い影響が認められる、といった研究が発表されたりしているのです。目という光を感じる器官は、脳細胞が変化して発達したものです。このことから、目が作られる前の段階にあった脳細胞にも、もともと光(電磁波)に反応する性質が備わっていたからこそ、目という器官へと脳の一部が発展していくことができた可能性があるのです。そうなると、脳を構成する物質と光の波が混ざった光物子(ポラリトン)の状態で起こる相互作用について、量子力学的な視点からも考えてみる必要がありそうです。気功や遠当てや私もよく使う手かざしといった、相手の体に接触しない状態で影響を与える技術の正体が、まだよく分かってない部分があります。もしも、電磁的な変化が人の脳や神経から他の人に伝達されていると仮定すれば、説明は楽になります。

 それだけではなく、物理的領域の因果的閉包性の問題を解決できる量子脳理論とも繋がっていきそうなので、真相を確かめる実験をしたくてウズウズしています。もしも、人間を取り巻く物理現象が因果的に閉じていて、未来が全部最初から確定しているなら、人間が自分の意思で物事を考えて判断して行動する意味はなくなってしまいます。最初から失恋する未来が物理現象として確定しているのに、女の子にアタックする男の子なんていませんよね。未来が分からないから、自分の意思で考えて決断して行動しているのです。ところが、そんな考えそのものも、脳の中の物理現象にすぎなくて、最初から脳が出す答えさえ決まっているとしたら? 未来は、全て予め物理的に定まっていて、自由意志など錯覚にすぎないってことになります。この説は本当に正しいのでしょうか?

 人間の脳の情報処理過程を観察していると、どう見ても、自由意志を持って考えて答えを導き出す活動をしているとしか見えません。人間は、物理現象が因果的に開いている、未来が定まっていない環境に生きているとしか思えないのです。動物は、遺伝子が用意した、本能的な定まった確定的な判断だけでは処理しきれない、因果的に開いた不確定な未来を持つ現実に生きているからこそ、意識が発達して、考えて判断をするように進化してきたのです。決して、本能(プログラム)だけで行動している機械のようなものではないのです。

 でも、ニュートンが考えていた時代の、因果関係がドミノ倒しのように連なって物事が起こっていく物理現象の世界は、因果的に閉じたものと考えるのが大前提です。そうでないと古典物理学は成り立ちません。なぜ、生物が生きる環境が、物理学の世界とは異なる、因果的に開いた不確定な未来が存在する状況になっているのか説明するには、量子力学の考え方を持ち出すしかありません。量子脳理論は、この難問を解く重要な鍵なのです。現象判断のパラドックスは、生物の散逸構造が自己組織化されていく、エネルギー・物質・情報の代謝サイクルのモデルを考えれば、ほぼファイナルアンサーを示すことが出来ます。でも、脳がポラリトンの状態になって動作している可能性の考察抜きでは、因果的に閉じている・開いているという議論は、成り立ちそうもない部分があると感じます。

 ポラリトロニック・デバイスを作って、プラズマ化した機能性流体の中に、膨大な数のレーザー発信器を生成して、人間の脳との間に電磁的な相互作用を作り出せれば、この答えは自ずと見えてきそうです。量子脳理論とポラリトロニック・デバイスを巡る研究はこれからが本番です。でも、産業機密の領域になっちゃうので、これ以上のことは、ここには書けません。

脳の遅延発達とアスペルガー症候群の混同

 一般の人は、まだまだ情報不足なのか、単純に脳の発達が遅いだけの正常な状態と、アスペルガー症候群などの区別がつかないようです。脳の発達が遅延する現象(delayed-development)について適切な情報を持っている人はあまりいない状況にあると感じるので紹介しておきます。


 このテーマを考えるうえで、まず最初に押さえておきたい最も重要なポイントは、脳の発達が遅れるのは悪いことではなく、人類の知能の発達の鍵を握っているという点です。チンパンジーと人間は99%遺伝子が同じにもかかわらず、思考能力が大きく異なります。染色体の数がチンパンジーは48で人は46なので、まったく同じとは言えないのですが、それでもほとんど同じ種類の動物と見てよさそうです。では、何がチンパンジーと人間の脳を決定的に異なるものにしているかというと、最大の違いは脳のサイズなどではなく、人間はチンパンジーの子供の脳の状態で成体になるという点です。つまり、チンパンジーから見れば、人間の脳は発達するのに非常に時間がかかり、遅延した幼くて若々しく柔軟性のある脳の状態のまま成長を終えるのです。この現象をネオテニー(neoteny)と呼ぶのですが、1920年にL・ボルクが「人類ネオテニー説」を提唱して以来、さまざまな研究が行われてきました。チンパンジーの幼形は人類と似ている点が多い、という発見からスタートして、多くの人がこの研究に携わってきた歴史があります。

 脳の発達が遅れる原因はさまざまなので、一概には言えないのですが、病的な場合を除いて、遺伝的な理由で遅延発達が見られる子供のほうが、早く脳が発達する子よりも、最終的な知能が高くなることが分かっています。最終的に知能が高くなる大器晩成型の人は、早く発達する人に比べて、前頭前皮質の発達のピークが、4年から5年も遅く現れるケースもあるのです。したがって、「脳の発達が遅れて、同年齢の他の子に比べて幼く見える子供は、頭が悪い」という、一般に広まっている科学的根拠のないただの思い込みは、半ば迷信に他なりません。また、「人間の脳は、正常な子ならば、ほぼ同じような時間経過で発達していく」という一般に広まっている思い込みも、科学的な裏付けとなる根拠がまったくない、ただの迷信に他ならないのです。実際に調査して明らかになってきた、「人間の脳の発達は、かなりの個体差が認められる」という事実を重視するなら、年齢別にクラスを編成して教育している、現在の学校の教育システムは、根拠のない迷信のうえに作られた、非科学的なものということになります。文部科学省は、学習カリキュラムを、人間の子供の脳の発育に合わせたものへと、改善していく必要があります。


 うちの一族の内家の者は、外家の者に比べて、脳が遅延発達することが知られています。というよりも、遅延状況を見て、内家の子として育てるか、外家の子として育てるかを、篩い分けているのです。一族の内家の子は、一般の日本人とは体質も脳の神経回路網も異なることが分かっています。私は一度も男性とお付き合いしたことも、出産の経験もありませんが、私の遺伝子を受け継ぐ子供は8人います。不妊症に悩む何組かの夫婦に対して、卵子を提供した結果です。一般的な女性ならば経験しなくてはならない、恋愛や夫婦生活や出産や育児などに時間を取られることなく、好きなことをやりながら、生物として生まれてきた「自分の子孫を増やす」という目的を達成できる、便利な世の中だと思います。ただし、私の遺伝子を受け継いだ子達は、揃いも揃って、普通の子供と同じように育てることが出来ない難しさを抱えています。だからこそ可愛いんですけどね。うちの一族の内家の人々の遺伝子は特殊なので、血が濃い子達は、必ずといってよいほど、脳の発達が遅延する傾向が現れます。

うちの一族は、非常に古風な変わった血統を伝えています。現在は、幾つかの神社を管理する古い家柄の体裁を取り、神楽を伝承する関係で、修験道などと神道が習合した文化を伝えています。一族のルーツは、故老からの伝承(つまり、お爺さんの昔話)によると、大陸の遊牧民族にあり、満州地域から日本へと東進した人々が信仰していた太陽神に仕える巫女(斎女)の一族だったと言い伝えられています。耀姫というニックネームは、太陽神に仕える斎女を神格化した女神の名前に由来します。神社に伝わる神事での斎女の役目は、1.禊をして、2.神楽鈴などを持って舞って、3.神憑りして、4.託宣することです。これを略式にしたものが、一般の人が神社に参拝する時に行う、1.手と口を洗い清めて、2.鈴を鳴らして、3.お祈りして、4.おみくじを引く、ものですね。略式は非常に簡単に、神社に行けばさっと済ませられる構成ですが、これを古くから伝承されているとおり本格的に行うと、かなりの時間と手間を必要とします。たとえば、厳寒期の禊は、神滝の滝つぼまで行って氷を割って、麻の平安装束の姿で水の中に全身を沈めて身を清める必要があります。寒中水泳のつもりで、普通の人がこれをやると、体温を奪われて低体温になって気を失い、二度と目覚めない可能性もあります。禊の次は神楽を舞うことになるのですが、これも普通の人には耐えられるものではありません。神社の御神体が甘南備山と定められていて、冬至の日の出に行う神事の場合には、積雪のある山の磐座(いわくら)まで登山する必要があります。日が登る時刻に合わせて、大地と一体になるため、力士と同じように裸足になって地面に直接足の裏をつけて神楽を舞わなければなりません。普通の体質の人が氷点下の山中でこれを行うと、凍傷になって足の指を切断しなくてはならない可能性もあります。太陽神に仕える斎女の一族は、高句麗道教の時代から約二千年間、代を重ねていくうちに、普通の人とは違う体質の遺伝子を持った人々で構成されるようになっていったので、平気で出来るのだと思います。一族の男衆も、修験道の厳しい荒行に耐え残った人々が代々厳選されて来たので、一般の人とは異なる遺伝的資質を持つ方向に、品種改良されていったようです。一族の中にも個体差があり、血が濃く現れている子は内家で育てられ、そうでない子は外家に回されます。私の母はヨーロッパで育ったハーフで、私にも1/4西洋の血が入っているのですが、父に言わせると「純血種よりも雑種のほうが強くて能力が高い」結果になったようです。


 一族の内家の子達は、這って動けるようになるのも、立ち上がって歩けるようになるのも、外家の子達に比べて極端に遅いことが分かっています。ところが、歩けるようになるのが遅い子のほうが、最終的には運動神経がより発達することも、経験的に言われています。同じことを学習するまでに、時間がかかればかかるほど経験量は豊富になるので、応用面での強さを発揮するのです。

 私は、人前では体を動かさず顔の表情も変えずに、じっと長時間座っているように躾けられたので、あまり問題視されませんでしたが、8人の私の子達は一般の家庭で育てられているので、そこまでの躾はされていません。揃いも揃って好奇心が旺盛で、授業中まるで落ち着きがないと言われています。注意力が散漫で行動が無計画で衝動的。自己制御力が低く自分勝手で他人の心の痛みなどをあまり理解しない社会性のなさを示します。授業中に突然立ち上がって勝手に話しながら歩き出すなど、ADHDの子と変わらないような行動を取ります。人真似は得意でも、どうしていいのか分からなくなると、じっと指示を待って動かないようなところもあります。賢そうな一面を見せるのですが、同級生に比べると、極端に社会性の面での幼さが目に付きます。素人目には発達障害そのものに見えるでしょう。ところが、ほとんどの子が数学が得意で、なかには5歳で高校で教えているレベルの数学が解けるようになった子もいるのですから、一概に知能が低いと受け取る人はいません。もちろん、12・13歳まで成長して脳の発達のピークを迎える頃には、これらすべての問題が解消されて、高い問題解決能力を示すようになる筈です。

 一族の内家の子達の間に共通して遅延発達が起こる原因について、ある程度分かってきています。人間の脳は、胎児の時期に神経細胞が大量に作られてから、自然死(アポトーシス)によって大量に死滅して必要とされる数に整理され、次にシナプスが大量に作られてから、必要とされる数まで減少するという経過をたどって、使用可能な神経回路網が形成されます。脳細胞が積極的に淘汰されて必要な量に落ち着く過程で、脳細胞の自然死をコントロールしている部分に、一般の人とは遺伝的な差異があるらしく、脳細胞が普通の人よりも数多く生き残るようなのです。その結果、普通の人よりも神経細胞シナプスの数も多くなってしまうため、神経回路網の整理整頓が遅れて、遅延発達する傾向を示す可能性を示唆するデータを得ています。最終的に、一般の人とは脳の配線が異なったものになるので、普通の人が考えないような発想を持つ傾向を示すようです。このような脳は発明家に向いているらしく、祖父・父・私と、三代続いた発明家の家系になっている一面もあります。


 ここまで読み進んだ方は、もうお分かりと思いますが、脳の遅延発達は、人類の知能の進化と非常に密接な関係があります。そして、現在も人類の脳は進化発展していく途上にあって、脳の発達速度は揺れ動いているのです。知能の発達が遅れている子、イコール病的な駄目な子という短絡的な発想は成り立たないケースもあるのです。言うまでもないことですが、知能の発達は、生後の教育環境によって大きく違ってきます。アスペルガー症候群と混同して間違った扱いをしていると、大きく伸びる可能性の芽を摘むことにもなりかねません。脳が遅延発達する子に対しては、一般の子とは異なる教育カリキュラムが必要です。うちの一族には、遅延発達する子専用の特別な教育方法が、高句麗道教の時代から約二千年の歴史の中で培われて伝承されています。内家の子には必ず養育係(守り役)が一人ずつついて面倒を見るシステムになっているのも、一人一人で脳の発達速度が異なり、それに合わせた対応をする必要があるからです。

 一般的な現行の教育システムでは、年齢によってクラス編成を行って画一的な教育を施していますが、望ましいこととは言えないと思います。「健康な人の脳は、年齢に合わせて一定の速度で同じように発達する」という、まったく根拠のない妄信から生まれた教育制度だと思います。人類の脳が進化していく可能性の芽を摘んで来たと見て間違いないでしょう。進化の可能性を切り拓くために、一族が伝承してきたノウハウが生かせる場を作れないかと考えています。

映画『(500)日のサマー』に見る現代人の恋愛行動の問題点。

現代人は、恋愛を友達づきあいと、どこかで錯覚しているようなところがあります。お互いの嗜好や趣味の一致を見つけた瞬間、親近感が発生して、ラブストーリーの発端となるケースはよく見られます。でも、結末はというと、性格の不一致を理由に分かれてしまうパターンが多いようです。

人間の深層心理の設計を行っている神様(遺伝子情報系)の視点から、恋愛の心理について解説するなら、男性は支配欲と服従心を、女性は保護欲と依存心を、お互いに対して求めるべきなのです。絶対に横の心理関係、つまり、友達や兄妹の心理関係を主軸にした恋愛関係を構築すべきではありません。うまくいくはずがないからです。本来、男性と女性では、趣味や物を考える視点がまるで違います。少し考えれば分かることですが、レースや刺繍を編むことが好きな男性はまずいないし、エステの話で盛り上がれる男性もまずいません。逆に、野蛮なスポーツや、イージス艦の兵装や、二次元の美少女の絵のコレクションについて話すのが好きな女性もまずいません。男女がお互いの趣味や嗜好を合わせようとしても、うまくいくわけがないことは、最初から確定しているのです。恋愛に、嗜好を同じくする友達付き合いの要素を持ち込んで、それを主軸として心の結び付きを強固にしていこうとすると、絶対にうまくいかずに、破局することが確定しています。現代の男女は、少し考えれば分かる、この点をまるで理解していないようです。

性格の不一致で分かれたという話を聞くとき、何が一致しなかったのか列挙してもらうと、実際には性格ではなくて、男女の性差による物事の考え方や嗜好の食い違いを指摘している場合がほとんどです。「あなたは男の人と付き合いたかったの? それとも好みや趣味が一致する友達が欲しかったの?」と質問したあとで、「あなたが今指摘したポイントで、好みや趣味が一致する男の人っていないと思う。」と指摘すると、「よく考えてみると、それもそうね」って反応が帰ってくる場合が多いのです。女性が本来求めているのは、男らしくて頼りがいがある男性です。嗜好や趣味が一致する、まるで女性のようなナヨナヨした男性像とは、大きく違うものを求めている筈です。女性本来求めているのは、男らしくて頼りがいのある男性との間に、保護欲と依存心という、縦型の心のキャッチボールを繰り返して、心の絆を深めていくことです。男性の側から見た恋愛の心理も同様で、支配欲と服従心という、縦型の心のキャッチボールを繰り返して、心の絆を深めていくことであって、横型の、お友達の心理関係など、女性に求めてはいけません。

恋愛の心理と、友情の心理を混同した、間違ったロジックが無意識のうちに働いてしまうのは、現代人の深層心理が動物園現象によって作動不良を起こしているからです。ナヨナヨした女趣味の男性や、男勝りの趣味を持つ女性は、恋愛の対象にすることが難しい。これはイメージのうえでは分かりきっていることです。それなのに、実質的な付き合いの中で、嗜好や趣味の一致を求める、間違った理屈に合わないことをしているのです。


恋愛の中には、男性側が主導権を握る、支配と服従の心理と、女性側が主導権を握るの保護と依存の心理の、心のキャッチボールが存在します。人間は、保護欲と依存心という、保育的な心のキャッチボールを、主に母親との心理的交流から学んでいきます。逆に、支配欲と服従心という、教育的な心のキャッチボールは、父親との心理的交流を通して学ぶ傾向があります。家庭の中でこれらの心理をうまく学んで、大人になったら、恋愛の中で応用的に活用する形を取るのです。したがって、子供の頃のエンパシー教育が非常に重要な意味を持ちます。こういった心のキャッチボールによって、心の絆を深めていくことがが正しく出来ないまま、友達付き合いのような恋愛関係しか築けない現代人は、家庭内での対人関係に必須の心理の教育に失敗していることになります。

男性は美しくて可愛らしい女性を前にして、恋の魔法にかかるとき、保護欲を向けていきます。女性側が、男性の優しさに対して、依存心を向ければ、心のキャッチボールが成立します。保護と依存の心理の主導権は、可愛らしい魅力を持っている女性側にあり、男性の心を奪って虜にする形を取ります。対して、女性は男らしい男性を前にして、恋の魔法にかかるとき、男性が見せる征服欲に魅力を感じて、服従心を向ければ、心のキャッチボールが成立します。支配と服従の心理の主導権は、男らしい魅力を持っている男性側にあり、女性の体の自由を奪って虜にする形を取ります。

支配と服従、保護と依存の心理関係は、どちらも、父親と子供、母親と子供の間に成立する、縦型の心理関係です。これに対して、兄弟や友達付き合いの間に生まれるのは、仲間意識やライバル心といった、横型の心理関係です。たしかに男女の間にも仲間意識の連帯感は必要ですが、兄妹のような心理関係の絆が深まることは、良い結果に繋がりません。日本では、子供の前で父親や母親が、「お父さん」「お母さん」と自分達のことを呼び合いますが、これは兄妹のような心理関係を形成してしまって、他人ではなくなるため、近親相姦のようなイメージを形成して、セックスレスの夫婦関係を作ってしまうこともあるのです。このことからも、あくまでも男女の恋愛感情は、支配と服従、保護と依存を主軸にすべきだということが分かります。

本来、恋愛感情は自然に無意識のうちに深層心理が作り出すもので、意識して、こういうシチュエーションではこの心理を使うべきだ、なんて考える必要のあるものではない筈です。それなのに、現代人の深層心理が正しく作動せず、理屈で考えなくてはならなくなっているのは、『アスペルガー症候群の勘違いと、深層心理の教育の関係 』http://d.hatena.ne.jp/mayumi_charron/20100124/1264296530の中で明らかにした、動物園現象の結果です。現代の人工的な不自然な生活環境によって歪んでしまったライフスタイルは、男女が互いを愛し合って幸せな恋愛生活をおくることすら妨げてしまっているのが現実なのです。

女性が女らしい体の魅力をアピールして、男性に依存心を向けることで、男性の心を奪って、保護欲を引き出そうとするのは、人間の脳の設計図から見ると、自然な正しいことです。ところが、風紀を重んじる教育が施されている現代社会では、女性が男性に対して体の魅力を見せることに、制限をかける文明社会のルールが形成されているので、正常なコミュニケーションが成立し辛くなっている面があります。もっと深刻なのは、男性が男らしい志の魅力をアピールして、女性に支配欲を向けることで、女性の服従心を引き出そうとする行為が、うまく成立しない点です。人間の脳の設計図から見ると、教育的を目的とする、支配と服従の心理の成立は自然で正しいことなのです。しかし、民主主義の自由平等の精神の教育によって、男女平等の考え方が正しいとされる現代社会では、男性が男らしく女性に対して支配欲を向けて、恋愛感情をリードする余地を奪っています。女性が女性らしい服従心を示して、男性に心理的に依存する正常なコミュニケーションも、成立し辛い不自然な状況を作っています。支配と服従の心理は本来、親が子供を教育のために用意されているものです。親が教えるとおり、命令に従った行動を取ることで、学習は進むものです。逆らったり無視していたら、何も学ぶことは出来ません。支配欲と服従心の心のキャッチボールは、教育に不可欠です。これは、自由主義の国アメリカの軍隊などでも、徹底的に教え込まれることですね。ところが、封建制度の社会の搾取や暴力と関連付けて、悪いイメージで捉える偏った見方をする悪慣習を定着させてしまったため、父親が子供を教育することや、男性が女性をリードすることすら、否定しかねない望ましくない心理的状況が形成されているようです。

男性が女性に対して、支配欲を向けて服従心を要求すると男女不平等になるとか、男性が力で女性の体を支配するのは男女不平等という発想は、物事の一面しか見ていない、西洋的な偏った発想にすぎません。現実には、男性が女性の体の自由を奪うより先に、女性が男性の心の自由を奪うように、人間の深層心理は作られています。心の自由を奪っている女性のほうが優位、と見る考え方も存在可能なのに、それを無視して、男性が支配欲を持って服従心を引き出そうとするから男尊女卑で不平等と考えるのは間違っていると思います。正常な原初的な社会では、女性の美しい魅力に心の自由を奪われて、保護欲を向けた男性が、優しい気持ちで愛情をこめて女性の体を支配しようとするとき、女性の意に沿わない乱暴を働く形になることはありません。ドメスティックバイオレンスといった形で問題行動が浮上して、うまく恋愛関係が築けないとすれば、深層心理が作動不良を起こしていると考えるのが妥当でしょう。


それから、現代の男性は、女性の巣作り行動に関連した深層心理についての認識を、ごっそり欠いている場合が多いようです。女性が本能的に恋愛関係に疑問を感じて、男性から離れていく原因の多くが、男性が女性の巣作り行動の本質を理解しておらず、自分の嗜好を軸にした身勝手な友達付き合いのようなデートに夢中になってしまうことにあるようです。男性をセックスフレンドとして見ることは出来ても、配偶者として見ることが出来ない状況を作ってしまっては、将来性がないから分かれるという判断が働いても仕方がないでしょう。

女性は、男性のようなその場限りの恋を望んでいるケースは少ないので、ある程度警戒感を持って男性に接するのが普通です。最初は素っ気ない態度を取って、ガードが固い様子を見せます。その心のバリアーを尊重しながら、ある程度親切で親しげな態度を示していると、「この人って私のことが好きなの?」という反応があります。そのタイミングを見計らって、いきなり他に関心ごとが移ったかのような態度を取ると、「あれっ?」って思った瞬間、自分が相手の男性を好きになりかけていると実感するのが、女という生き物です。男性に対して女性が所有欲を感じたとき、恋愛を意識するのです。そうなると、女性の方から積極的にアピールする行動を示すようになることも珍しくありません。

女性は、ムードが高まってキスしたら、セックスしたと同義に深層心理で受け止めるところがあるので、キスをしてムードが良ければ、そのままセックスもオーケーという流れが普通です。でも、恋は熱しやすくて冷めやすい部分があるので、セックスしたあとも、男性がうまくムードを作って引っ張っていかないといけません。そこで重要なのは、言葉ではなくエンパシー(共感)を用いた心身一体のコミュニケーションです。恋をした女性は、必要最小限のことしか考えられなくなって、受動的な待機状態に入っている時期があります。それを見計らって、男性の側から将来設計などの夢を提示していくと、どんどん受動的に頭にインプットされて、二人の夢としてイメージが膨らんでいくのです。そうして、この人と一緒に人生を歩んでいってもいいかなーって思うようになるのです。そうなるように脳の構造が出来上がっているんですね。

でも、そういう展開がまるでないと、やがて恋愛のドキドキ感が薄れていくにしたがって、「この人は私の理想とは違う。私のことを大事に思ってるの? 体だけが目的なの? この男性のハートを掴むのに失敗したかもしれない。」そう感じる方向に、深層心理の次元でロジックが働いていってしまうことになります。男性とのセックスが終わると、女性は巣作りをするための本能的な深層心理が働き始めます。この深層心理と呼応する現代社会の要素は、家庭設計です。本気で付き合って、最終的に結婚を望んでいるならば、女性が恋の魔法にかかって必要最低限のことしか考えられない受動的な脳のモードになっているときに、「どんなところに棲みたい?」「子供は何人欲しい?」といった家庭設計の話をインプットして、上手に巣作りの本能をリードしてあげることで、男性の人生設計の夢と女性の巣作り行動の夢を摺り合わせていくことが可能になるのです。もちろん、男性の側からは支配と服従の心のキャッチボールになるように話しかけ、女性の側は保護と依存の心のキャッチボールになるように応じる必要があります。男女の心の絆は、そうして深まるように出来ているのですから。この作業をまともにせずに、ただ友達付き合いのようなデートだけ繰り返していると、女性は心理的な巣作り行動に入ることが出来ないため、本能的な深層心理の部分で不満を抱えていき、自分の体だけが目的なの? という望ましくない判断が無意識のうちに働きはじめて、恋愛感情が冷めていってしまうのも早いのです。

女性は、そういう判断を、一方的な視点から無意識のうちにして、いきなり別れ話を持ち出すわけではなく、男性のリードが不適切だと、打診的態度を取る時期があるんですよね。その危険信号を感じ取ったとき、男性が自分の個性的な魅力をアピールしようと、嗜好や趣味を女性に押し付けるようなデートを企画したりすると、たいていの場合、結果は最悪です。お友達感覚のアピールをいくら行っても、恋愛感情は主に縦型の心理関係で成り立っているものなので、補強にならず、男女の嗜好の違いやものの見方の差だけが強調されていき、無駄に終わるのです。女性が本能的に求めていることとまるで噛み合わないので、破局に向かって一直線になってしまいます。

女性が不満そうな落ち着きのない態度で、打診的な態度を取っているときに、男性がやるべきことは、何も考えずに優しくキスをしてそっと抱き寄せて、こうしているのが僕にとって一番幸せなんだよって態度を取って、生活感を伝えることです。女性は、自分が大事にされていると感じられる、幸せなひと時の満ち足りた充実感を、一番重要視するものです。自分の生活環境を、その充実感を中心にイメージして築いていこうとするので、巣作り行動がうまく成立するようにリードして環境を整えさえすればいいのです。現代人の女性は、「いつか素敵な王子様が現れて、私をどこかにさらっていくの」という夢を思い描くことが多いものの、それだけが結婚のスタイルではないんですよね。西洋式の、新居を構える略奪結婚型(核家族型)の家庭設計だけでなく、女性を生家に置いておく和風の通い婚という、大家族のスタイルもアリだと思います。単身赴任になるようなら、彼女が住んでいる場所を中心に据えた巣作り行動ができるように、夢を提示していくことも選択肢の内ですね。男性にとっては、略奪婚型より通い婚型のほうが、負担が少なくて楽かもしれません。うちは通い婚型の母系の継承をしていく古風な家柄を今でも維持しています。

というわけで、現代人の恋愛行動は、恋愛の主軸となる、支配と服従・保護と依存の心の絆を深めるのではなく、友情の心の絆を育てて繋がろうとする、間違ったものになっているため、本来なら充実する筈の心理関係が希薄なままになって、本当に愛し合う喜びを得られずにいるケースが多いようです。深層心理の作動不良を解消し、恋愛に関する認識上の誤りを軌道修正して、遺伝子情報系が人間という種を当初設計したときに予定していた、標準状態の原初的な文化形態に沿った、本物の幸福な恋愛を手に入れられる社会システムと心の文化を再構築する必要があると思います。

ミラーニューロンとエンパシーとアスペルガー症候群の関係

 先日私は、『アスペルガー症候群の勘違いと、深層心理の教育の関係』http://d.hatena.ne.jp/mayumi_charron/20100124/1264296530のなかで、アスペルガー症候群の診断基準が曖昧で、脳の神経回路網の発達不良は、脳の先天的な機能障害が原因とは限らないことを書きました。これに対して、以下のようなメールを頂きました。

 私が例として掲げた10歳になってもお箸をうまく持てない子や、絵を書くモードをうまく切り替えられない大人は、ミラーニューロンがうまく働かないため、模倣能力が不十分なのではないか、というものです。ミラーニューロンと関連した先天的な脳の機能障害を抱えた人には、発達障害が現れるのではないか、というわけです。

 自閉症の人の脳のミラーニューロンが存在する領域は、解剖学的に観察しても分かる差異が認められることから、ミラーニューロンの働きと自閉症の間には密接な関係があることが示唆されています。もちろん、アスペルガー症候群との深い関係も関係を示唆する報告もたくさんあります。


 ミラーニューロンについて簡単に説明すると、自分の体を動かしたときにも、他人が体を動かすのを見たり感じたときにも、まったく同じように脳の中で活動する神経細胞のことです。他人が体を動かすのを見て、自分が体を動かしているかのように感じる。これが他人との共感、エンパシー現象だと考えている研究者が多いようです。たしかに、ミラーニューロンの働きが優れている人は、一度他人が体を動かすのを見ただけで、踊りや体操や武術の型を覚えて、まったく同じ動きが再現できます。しかし、綾取りの遊びをしてみれば分かることですが、一度見ただけで同じ形を再現できるところまで、高度な指使いの模倣能力を、生まれたときから備えている人はいません。生後、どのような遊びを経験しながら育ったか、学習内容によって結果がまるで違ってくるのです。

 うちは幾つかの神社を管理する古い家柄なので、私は物心ついたときには、すでに周囲の大人達を見ながら、神楽の舞の真似をしていました。指の動きを模倣して習得する訓練が重視され、大人達は時間があれば子供に、お手玉や綾取りの遊び、微塵(ボーラ)や分銅鎖や討ち根の使い方、ワイヤートラップの扱い方などを教えます。昔は猟師が動物用のトラップを森の中に仕掛けていたので、子供にトラップの知識を持たせて、絶えず注意を払いながら遊ぶ習慣を身に付けさせる必要があったようです。今でも私の生家の周りの重要な場所には、泥棒除けのトラップが仕掛けてあって、不注意に歩くと頭からペイントを被って、犬に追い回されることになります。

 合気道の元となった、殿中で暴漢を素手で取り押さえる作法として伝わっている、手乞い(てごい)や失脚(しっきゃく)といった古武術の体系も、物心つく前から自衛手段として学ばされます。といっても、神様が宿る依り代となる子は生き神様同然の扱いなので、技をかけることなど誰も許されていません。受身などは、見て感じて習得するイメージトレーニングで、学ぶしかないのです。実際に技をかけてもらえる他の子達と、習得速度に大差がつくように思う人もいるでしょうが、その逆になります。外家の子は、子供同士でじゃれ合うことが許されていますが、内家の子は大人相手にしか技をかけることを許されません。内家の子を一般の子と一緒に遊ばせると、能力差がありすぎて事故が発生するので、物心がついて判断できるようになるまでは、一緒に育てないように配慮されるほど危険視されるのです。特に私は、西洋の血が1/4入って雑種化しているので、純血種よりも腕力が強くて能力が高く、特別扱いにくい危ない子だったようです。


 こんなことがありました。幼稚園でスイカ割をして遊ぶことになったのですが、どういうわけか、先生は洗っていない外皮がついたままの、虫食い穴がある木の棒を手にしていました。そんなものでスイカを叩き割ったら、中から虫の糞が飛び出してきて汚いと感じた私は、先生と言い合いすることを避ける形で先手を打ちました。自分達が食べるスイカを親戚の子に持たせておいて、足の踵を振り下ろす技でスイカの表面に亀裂を入れようとしたのです。外側にヒビさえ入れば、あとは手で割って綺麗に食べられます。片方の靴を脱いで、はしゃいで飛び上がって大技に入る絶妙のタイミングで、私の不自然な行動を察知した先生は、こともあろうにスイカを持たせた男の子の名前を呼んでしまいました。私に声をかけても、止めないばかりか、予想もしないとんでもない屁理屈(この場合は、虫食い跡のある木の枝でスイカ割りをすると、虫の糞が虫食いの穴から飛び出して、スイカが糞で汚染されてしまう可能性)をつぎつぎに口にして、まったく言うことを聞かず、手に負えないことをよく知っていた先生は、静止できそうな親戚の子のほうに声をかけたのです。その子が体を前に傾けながら斜めに後ろを振り返る動きをしたため、胸の前に抱えたスイカと頭の位置が入れ替わる形になりました。私の踵は高い位置にある頭に、振り下ろす動きを緩めることなく、手加減なしで当たってしまいました。病院に運ばれたその子の頭蓋骨にはヒビガ入っていて、もう少しで頭蓋骨が陥没して死ぬところだったそうです。内家の子同士だったら、軽く頭を蹴った程度で頭の骨が折れて入院なんて、考えられない事故ですが、その子は外家に回された子で、危険を察知する能力や身体強度がかなり足りなかったようです。絶妙のタイミングで声をかけて、死亡事故が発生してもおかしくない危険な状況を作ってしまった先生は、学園の理事をしている親戚に呼ばれました。子供達が何をしようとしているか、状況を見て把握するエンパシー能力の不足を理由に、解雇されました。

 このようなケースを観察すると、症候群と診断されないレベルでも、エンパシー能力には、遺伝的な個体差が、かなりあることが分かります。内家の子なら、幼稚園生にもなれば、体がどう動くか完全に予想がつくので、先生に呼ばれても、反射的に振り向いて、自分の頭が的になるような姿勢を取ることは絶対にしません。同僚の先生が外家の男の子をかばうつもりで、次のような推理を持ち出しました。「その男の子は、スカートの中身が見えてしまうことを考えているときに、先生に声をかけられたので、悪いことをしているところを見つかった子供がドキっとするように、思わず反射的に振り向いてしまったのだ」と。直接私の行動を批判できない空気なので、暗に、私がミニスカートを履いた状態で羽目を外して、足技を使ったことを非難する内容で来たのです。これを聞いて、物分りの悪さに腹を立てた母は、私のミニスカートをめくって、タックスパンツ形状のペティコートを見せて反論しました。ミニスカートに適度なふくらみをつけたり、汗をかいた時の冷却がスムーズになることを目的に、たくさんのレースのヒダが設けられています。さらにポケットが内蔵された複雑な形状になっていて、その下に着ている、筋肉や関節を保護して身体機能を高める働きをする、ボディースーツの形が見分けられる構造にはなっていません。もちろん、さらにその下の下着が見えるわけがありません。たとえボディスーツを脱いだ状態を見たとしても、フレアパンティはレースの飾りが付いたスパッツを履いているようにしか見えず、女性の下着を見たという認識が生まれることはありません。つまり、ミニスカートを履いている状態で足技を使ったことを非難されるような、隙のある服装ではなかったのです。外家の男の子は、私が和装に着替えるときに、何度か着付けを手伝ったことがあるので、スカートの下の構造を知っているし、親戚の道場でプロテクターを着た状態で私の足技を受け慣れていました。あの状況でエッチなことを考えたりはしません。母が最後に「先生のほうが、幼い女の子を対象に、エッチな想像をなさっているのでは? この子はそんなことを考える年齢ではありませんよ」と、外家の男の子を庇う姿勢を取りながら嗜めたので、先生は閉口しました。こうして、事故原因は、問題の先生と外家の男の子のエンパシー能力と危険予知能力の不足にあると判断されました。

 じつは、エンパシー能力は、第一印象で分かります。能力が低ければそもそも雇わなければいいわけで、解雇理由にはなりません。本当の理由は、私が昆虫の糞の存在を率直に先生に向かって指摘できないような、対話が困難な心理関係を作ってしまった点にあったでしょう。私の意に逆らう形で、昆虫の糞がトッピングされたスイカを子供達に食べさせる事態になっては絶対に困るし、私の意に逆らう形で、死亡事故が発生する状況を招かれることも、二度と許されないという判断です。スイカを足蹴にしようとした私の足癖の悪さについては、上に書いたように、遠回しに批判した人が一人いただけで、誰も正面から言及できませんでした。ただ、お婆様は、女の子らしい振る舞いについて学べる機会を増やすように、私の教育カリキュラム編成の一部を変更したようです。親戚がやっている古武術の道場に所属する女性が、代わりの先生としてやってきました。前を向いて座ると、まったく体を動かさない物静かな私が、ちょっと視線を動かしたがけで、その先を追って、何を考えているのか察してくれるような人だったので、幼稚園の居心地が良くなったのは言うまでもありません。


 古武術を習得している私達は、目で見なくても、足音を聞いただけで、足捌きに使われている筋肉の状態がイメージできます。その足の動きから、上半身の状態もある程度予想してイメージできるので、足音を聞けば、何をしようとしているか、見なくてもおおよそ分かります。それだけでなく、音が聞こえない状態でも、壁の向こうにいる人の動きがはっきり分かることがあります。時代劇でこっそり屋根裏に忍者が潜んでいることがありますが、うちの家の屋根裏に入ったら、音などさせなくてもたちどころに分かってしまいます。ねずみと人の気配は明らかに違うので、混同することはありません。気配を察しているときには、ミラーニューロンが作動している可能性が高いことが確認されているので、視覚・聴覚を遮断された状態で相手の気配が感じられるのは、錯覚ではありません。おそらく、生体磁気などが生み出す電磁場による無意識レベルの情報伝達が存在するのだろうと考えられています。

 一般的な現代人は、ほとんど視覚に頼る情報収集や判断ばかりしているので、ミラーニューロンも、視覚刺激によく反応するように発達しています。しかし、私達の場合は、音でも反応するし、壁の向こうにいる人の気配でも反応します。ミラーニューロンの働きはエンパシーにとって非常に重要ですが、現代人は訓練する体系的なノウハウを、社会的慣習として持っていません。赤ちゃんが親の表情を真似するのを見て親が感動して、共感を伴ったあやし方をする程度で終わっているようです。

 箸の使い方、綾取りのやり方などを、エンパシー能力を発揮して学習するには、ただ人がやっているのを見るだけでは駄目です。集中力が非常に重要な鍵になります。集中力の発揮のしかたを、感覚として学ばせていない子供は、人がやっていることをみても、うまく模倣することが出来ません。この点を理解しないで、10歳になってもお箸が使えないからアスペルガー症候群だとか、ミラーニューロンの先天的な機能障害などと、もっともらしい言葉を持ち出して分かったように言及するのは問題だと思います。じつは、猫などの狩をする動物は、狩のコツを親から学習するために、特別なエンパシー能力と、脳のモードを備えています。猫は、犬のように命令を聞く本能を持たない動物ですが、時々じーっと、人間がすることを観察していることがあります。そのあと、ドアの開閉のしかたを知らなかった猫が、突然、ドアのレバーに手をかけて開けることができるようになったりします。エンパシー能力を発揮させる学習には集中力が必要なので、身動ぎもせずに人がやることをじっと見つめているのです。もちろん、人と猫では体の形や筋肉の付き方がが違うので、完全なシンクロは不可能ですが、頭のいい猫はうまくイメージを繋いで、人間の行動をコピーするようです。うちの猫は、パソコン画面を前足でタッチして、ほしい缶詰を指定したり、何かあると、私達の姿のアイコンにタッチして、電話をかけることも出来ます。

 猫でも知っている集中力の発揮方法を人間は知らないから、ミラーニューロンの機能を十分に使いこなせていない人は多いようです。集中力を発揮する方法を学ばせるには、周囲の大人が、息を凝らして、針の穴に糸を通すような難しいことを、子供の目の前でやって見せてあげるしかありません。そういった教育を何もしないでおいて、この子が箸の使い方を覚えられないのは、先天的な脳の機能障害を抱えているから、と言ったところで、物事の道理が分かってないのはどちらなのか、疑問があります。子供の教育を何もかも学校に任せにしておくと、こういった部分に盲点が生じて、発達障害同様の問題が生じます。本当は、『リニアとスパイラル 西洋型と東洋型の思考様式の違い』http://d.hatena.ne.jp/mayumi_charron/20100125/1264413658の中で、さまざまな見地を擬人化した、カード型データベースとして紹介したように、体系的な多様なものの見方を、子供のうちから教えてあげたほうがいいのです。、親切な行動、意地悪な行動、良い行動、悪い行動など、さまざまなものの見方があることを教えておかないと、どのモードを使って相手が考えて自分に接しているのか見当がつかない、他人の考えが理解できない人が出来上がってしまいます。よく、御伽噺は残酷だとか、悪い考え方が示されていることが問題になって、子供に読ませるのに適切ではないと指摘する人がいますが、唯一の理想的なものだけを選択していくと、一面的なものの見方しかできない、物分りが凄く悪い人に育て上げてしまうことになります。心の中のさまざまな深層心理を体系的に学習させられるように、データベース化しておくことは、とても大切なのです。「陰陽師の使う式神は迷信」なんて言っていると、伝統的な優れた人格形成の体系を学ぶ機会を失ったままになります。もちろん、古い時代の発想のままでは、現代社会に適応できないので、式神なんて呼ばずに、ポケモンのようなキャラクターとして子供達に教えてますけどね。さまざまなキャラクターが登場する即席の御伽噺のベースは、伝承されてきた式神の体系なので、子供達が大人になって古い文献を当たれば、オリジナルの姿が分かるようにしてあります。

 エンパシー能力やミラーニューロンと、非常に重要な関係にあるのが、物真似やままごと遊びです。また、音楽を伴う踊りは、エンパシー能力を高めるうえで、非常に重要な働きを持っている文化です。エンパシー能力が低い子でも、一緒に遊ぶだけで簡単に能力が身に付いてくることがあります。私は8人の自分の遺伝子を受け継ぐ子供を育てていることを『アスペルガー症候群の勘違いと、深層心理の教育の関係』で書きましたが、私が育てられたような能力の高い遊び友達の集団の中で教育を受けさせることが難しいケースもあります。周囲の遊び友達の能力を引き上げるように、私が一緒に遊んであげるのも、子育ての内と思っています。

リニアとスパイラル 西洋型と東洋型の思考様式の違い

 私は熟考タイプなので、普通の人なら簡単にその場で答えを出すような事柄でも、一週間・一ヶ月・あるいは何年もかけて答えを出すことがあります。ブログにアップした文章も、後から大幅に書き換えられることがあります。「最初に読んだ内容、最初に聞いた意見とまるで違うことが書き込まれたり、少しずつ食い違った意見が次々と並んでいって、最後にはまるで違うことを言っているから、何を考えているのか分からない。」そんな印象を持たれることも少なくありません。

 まったくの初対面の人に対しては、混乱させてしまうだけなので、そんな話し方はしないように心がけていますが、少し親しくなった間柄では、10ぐらい、少しずつ見方が違う意見を並べて見せることがよくあります。もちろん、対立や矛盾を含むすべての意見が、嘘偽りのない私の考えです。家族が3人集まると3人が同時に口を開いて、何通りもの意見を並べていくことも珍しくありません。なぜそんな話し方をするのか理由が分かっていない人は、口喧嘩をしているかのように感じて、十通りぐらい意見が出たら、もう会話に加わることができなくなるようです。

 これを理解するには、まず、思考様式の違いを認識しなくてはなりません。西洋型と東洋型の思考様式は、大きな違いがあります。簡単に表現するなら、西洋型は一直線(リニア)で、東洋型は螺旋(スパイラル)です。西洋型のものの考え方をするように、長年教育を受けてきた現代人は、私達と思考の様式が大きく違う部分があるため、言っていることが、変に横にずれていくように感じたり、すぐに話が飛ぶように感じて、戸惑うことが多いようです。じつは、螺旋階段を昇るように、多角的視点から対象の周りを旋回しながら、見地を高めていく動きをしているのですが、そのことが分かるまでは、かなり戸惑う人が多いのです。

 西洋型の思考様式では、賛成意見と反対意見を一直線上で向き合わせた状態にして、議論を進めようとします。ところが、東洋型の思考様式では、意見を正面から向き合わせないことがほとんどです。少しずつ違う視点から対象を見ていくので、意見が180度正面から一対になって対立することは稀なのです。 

 英語の場合は、自分のことを表す言葉が「I」一系統しかありません。日本人の男性教師を観察してみると、日本人はまったく違う言語の慣習を持っていることが分かります。教壇に立っているときは「先生は」と言い、職員室では「私は」、友達と遊んでいるときは「俺は」、家に帰って子供の前では「お父さんは」と、多様に変化します。それだけでなく、それぞれの社会的役割に応じて、口調から態度まで、大きく別人のように変化します。西洋人の場合は、たったひとつの自己像しか表現する言葉がないのに対して、日本人の場合は、社会的役割に応じた複数の自分の姿を、言葉の表現上も言い分けることができるのです。もちろん、「I」一系統で自分の考えをみつめるのと、いろんな立場からの自分の考えを見つめるのでは、大きな違いがあります。

 西洋型の思考様式では、賛成か反対か、正面から向き合って意見を述べ合って終わりです。 A→B→Cと順に話が進みます。ところが東洋型の思考様式は、賛成意見・反対意見の一対では終わらずに、多様な視点からのものの見方を想定して、考え方を順に並べていって、螺旋階段を昇るように、少しずつ高い見地へと移行していく形を取るのです。もちろん、矛盾や対立を含んでいても、そのすべてが自分の考えです。

 ところで、そんなに多くの自分の視点を設定していったら、どの意見がどの視点からのものだったか、混乱して分からなくなると思いませんか? じつはそうならない工夫が、日本の伝統的な文化のなかにはあるのです。「先生は」「私は」「俺は」「お父さんは」と、言い分けることで、社会的役割に応じた、多様な異なる視点からの意見を語れるように、東洋型の螺旋思考を整理整頓する手法があります。それが、アバター(仮想人格)を用いた情報の整理術です。「先生は」「私は」「俺は」「お父さんは」と語る異なるアバターを作って、それぞれの立場から意見を言わせることは、誰にでもイメージできますよね? 「I」ひとつしかない西洋型のリニアな思考様式が普通で、複数の視点から物事を考えることに慣れていない人は、脳内複数アバターを用いてスパイラル思考していることが分からないうちは戸惑うようですが、ここまでの説明を読んだ人は、東洋型の思考様式と称して、私達が何をしているのか、意図や目的が十分お分かりになったと思います。

 このような、言葉の表現上の慣習や、ものの考え方の違いが、どこから生まれてきたのか考えるとき、前時代の古い心の文化の姿を顧みると、理由が明らかになってきます。伝統的な西洋のキリスト教一神教で、神様はたった一人しかいないようです。神と悪魔の対立なども、一直線(リニア)にしか成り立ちようがありません。ところが、日本は八百万の神々が存在することになっていて、アニミズム的発想で、多種多様な事象の擬人化(アバター化)によって、複雑なスパイラル的な物事の見方が可能になる精神文化を持っていたのです。こうしてみると、西洋と東洋の様式の差は、現代の言葉の中に存在するだけでなく、古い時代の精神文化だった宗教の中に、すでに存在していたことが分かります。

 「先生は」「私は」「俺は」「お父さんは」といった、心の中に生じたさまざまな視点を、ひとつずつ名前をつけて擬人化してやることで、多くの見地からの物の見方を交通整理出来ることは、なんとなく分かった人が多いと思いますが、それでも、漠然としかイメージが掴めていないと思います。無意識のうちに日常的に使い分けている、教師・職員・私人・父親といった社会的立場による行動パターンの違い、ものの考え方の違うアバター(心理学では本当はペルソナ、人格の仮面と呼ぶ)に、具体的に名前を付けて、意識的に整理整頓したことがない人が大部分でしょう。

 整理整頓の工夫のひとつは、これらのアバターをカード型データベースにすることです。たとえば、ポケモンのゲームのカードのように分類しておけば分かりやすいでしょう。ポケットモンスターは、古い時代の妖怪の発想を現代風に置き換えたもの、と指摘した人がいました。日本人は昔は妖怪好きだったが、その文化をうまく現代風にアレンジしてよみがえらせることに成功している、と言うんですね。ポケモンの多くは、自分の心の外にある要素を擬人化したモンスターですが、自分の心の中のさまざまな要素を擬人化してコレクションすれば、『アスペルガー症候群の勘違いと、深層心理の教育の関係』http://d.hatena.ne.jp/mayumi_charron/20100124/1264296530で触れた、未使用・未発達な深層心理を擬人化して、意識的な思考の対象として扱い、自分の心のメンテナンスを行うことも可能になるのです。

 脳内で使用する仮想人格のことを、アバターと呼ぼうがポケモンと呼ぼうが妖怪と呼ぼうが、けっきょくは同じことです。古い神道の世界では、イメージして使役する仮想人格(アバター)のことを、式神(人が使役する神という意味)と呼んできました。一般の人は、式神と言うと、すぐに妖怪と同じようなオカルト系の漫画やアニメや映画を連想してしまいがちです。あれはあくまでも面白おかしく興味深く仕立て上げた作り話にすぎず、発想が空虚で何の役にも立ちません。本物の式神は、架空の人格のイメージにすぎませんが、「先生は」「私は」「俺は」「お父さんは」という言葉で実際に日常生活の中で活用しているアバター(ペルソナ 仮面)を、より具体化してイメージしたものです。架空の役に立たないものどころか、必要不可欠な存在を擬人化した存在です。もちろん、仮想上の人格にすぎないアバターポケモンや妖怪や式神の霊が存在するなんて、実証が困難なオカルト系の仮説を持ち出す必要はどこにもありません。昔の人々が信じていた迷信の部分は横に捨て去って、有用な知恵の部分だけ受け継いで、現代風にアレンジして活用していけばいいのです。仏教の曼荼羅も、深層心理の次元に内在しているさまざまな要素をアバター化して、内観できるようにデータベース化したものと考えることが出来ます。こうしてみると、東洋型の思考様式は、神道や仏教の中に、古くから存在していたことが分かります。

 うちでは、家族が3人しかいない席でも、バーチャルな会議の参加者が16人もいて、16通りもの視点から意見を述べ合っている、なんてことが珍しくありません。事情を知らない人が見たら、何か憑いているんじゃないかと、怖いイメージを持つかもしれませんね。でも、アバター名を名乗らずに16通りの視点からの意見が錯綜するよりは、ずっと分かりやすいと思いませんか? このバーチャル・キャラクターを用いた思考方法を用いれば、「I」ひとつの意見しか持てなかった状態とは次元が異なる、高い見地へと到達することが可能になるのです。カード型データベース化して、活用しない手はありませんね。

 え? 「耀姫だって、そういう目的を持って設定されているアバターの一人だろう」って? 鋭いですね。その通り。『日本神話の中に登場する 耀姫(あかるひめ)』http://d.hatena.ne.jp/mayumi_charron/20100122/1264163279 を読んでいただけば分かりますが、私は今から千数百年前に、高句麗から日国に入植することを望んだ人々の、長い旅路を照らし続ける希望の光を擬人化した、古い神話に登場するバーチャル・キャラクターです。現代人の導きの光となることを願って、今もここに存在しているのです。

アスペルガー症候群の勘違いと、深層心理の教育の関係

 『農耕が障害者を生んだ』という、面白い説を提示なさっている方のブログを読んで、考えさせられるところがあったので、遺伝子が脳をどのように設計して、神経回路網を作り出しているのかという、私が専門とする視点から、書いてみようと思います。農耕文化の発達だけが原因ではなく、意識容量と不釣合いな人類の脳の急激な発達と進化や、人工的な不自然な生活環境の形成が、深層心理の発達不良を生み出す方向に進んでいる、と私は見ています。

 アスペルガー症候群は一般に、知能に問題が見られない発達障害のように把握されていますが、これは大きな間違いです。明らかに知能に問題が認められるのに、その点が正しく理解されていない問題があります。人間は意識して言葉でものを考えているだけではなく、深層心理の次元で、無意識のうちに連想して物事を考えます。この部分が、人間の知的情報処理の中核であり、知能の本体です。無意識の連想能力、つまり直観力が低下して、極端に察しが悪い状態を、アスペルガー症候群と呼んでいるケースが多く見られます。短絡的に、意識的な思考=知能で、それに問題がなければオーケーといった、意識上の思考のみを人間の知的な能力と勘違いする考え方が広まっているようです。現実には、意識できる自分の思考はほんの氷山の一角で、脳の中で行われているほとんどの知的な情報処理は、無意識のうちに深層心理の次元で行われる連想によって成り立っているのです。人間の意識容量や意識のチャンネル数(チャンク・チャンネルの数)は限られているため、意識は精神活動の一部分をモニターしているにすぎない状態だということを、十分に理解していない人々が発信した情報によって、混乱しているのです。罹患率が0.1%〜20%という、大きなばらつきを見せることひとつとってみても分かるのですが、この症候群を正しく診断する基準がまだ十分定まっているとは言えない状況です。診察する医師によって判断がバラバラ、つまりあやふやということなのです。


 さまざまな症状を示す人々を、アスペルガー症候群としてひとくくりにまとめて、脳機能の障害にばかり気を取られている専門家がいます。味覚の感度が普通の人と違うため、料理に対して一般とは異なる感じ方をする人は、脳の配線そのものが、どこかで違っていることが考えられますが、そのような特殊なケースと、コミュニケーションの次元に問題を抱えている人の発達障害は、原因がまったく異なる可能性のほうが高いでしょう。ところが、症候群と言って、すべてひっくるめて診断してしまっているケースがあるようです。可能ならば、症状ではなく原因別に分類していくほうが、対処方法も明確になって望ましいのですが、原因にまで十分に目が向かない人が多い気がします。

 凄い診断に出会ったことがあります。10歳になってもお箸がうまく使えず、字もうまく書けない子がいました。脳の特定部位に障害があるため、発達障害が生じていると、私に向かって説明した人がいました。私はその子の目が部屋を見回して情報を拾っていく動きを観察して、その診断は間違いだと感じました。試しに、その子に携帯ゲーム機を手渡したところ、普通の子と変わらないゲーム内容で、かなり高い得点を出していました。基本的な運動神経や判断力に問題がないことを確認できたので、文字を書いたりお箸を扱うのに必要な指の動きについて話をしたのですが、うまく出来ないことがわかりました。親指・人差し指・中指の三本の先端をぴったり突き合わせた状態で、前後に動かす運動が出来なければ、鉛筆も箸もうまく扱うことは出来ません。親から一度も箸の持ち方やトレーニング方法を教えてもらった経験がなければ、うまく扱えなくてあたりまえです。お箸の手の動きは簡単に習得できるものではありませんからね。それなのに、「教えなくても自分で大人がやっていることを観察して、できるようになるのがあたりまえ。できないのは異常な子」という先入観のような発想があるのか、この重要なことが、その子の周囲の大人達には理解できていない様子でした。私が物心ついたときには親から学んで知っていたトレーニング方法を、初めて聞くような顔をしたのです。「鉛筆やお箸がうまく使えない」という苦手意識を、周囲の大人が作って、本人の頭の中に定着させた結果、出来ない癖が付いてしまい、逃避しているにすぎないことが、推察できない状態にある人の手で、不可解な診断を下されていたのです。脳の特定の部位に障害があるため、お箸がうまく使えず、字も上手に書けないアスペルガー症候群と診断された子は、私のアドバイスにしたがって3日間50回ずつ、箸を持たない状態で、突き合せた三本の指を勢いよく伸ばすように弾くトレーニングをしただけで、正しく持てるようになったのでした。ゲーム機の操作が、普通の子以上にできる器用な子なのに、お箸がちゃんと扱えないなんて、周囲の教育の問題であって、本人に原因があるわけではないと思いました。


 脳の機能そのものに何か物理的な問題があるケースは、このような場で言及してもあまり意味がないので、深層心理の次元で、無意識のうちに働く連想能力、つまり直観力が未発達のままになっている心因性(後天的学習に問題がある)のケースに限って、傾向と対策を見ていこうと思います。もちろん、以下に述べるケースを、アスペルガー症候群として扱うことは、正しくない可能性が高いと思います。というのは、アスペルガー症候群は、生後の教育が原因で発生するわけではない、とされているからです。


 深層心理の働きと意識の関係を理解するには、このようなケースが一番顕著で分かりやすいでしょう。幼児虐待を繰り返す母親の悩みを聞いてあげていると、「幼い子供が拙いことをするのは当たり前で、それを頭ごなしに叱ってはいけないと理屈では分かっているにもかかわらず、子供が悪さをするのを見ていると、どうしても腹が立ってきて、折檻せずにはいられなくなる」泣きながらこう訴えるケースに出会ったことがあります。本人の意識上の理性の働きとは別に、深層心理が攻撃的な衝動を生み出していて、しかも理性では抑えきれなくなっているのです。これは、個人だけの問題ではありません。虐めなどの集団心理の形成過程にも潜んでいます。自分達と違う要素を見つけてレッテルを貼り、反感を煽って排斥心理が暴走する状況を作る社会現象が虐めです。これは、理性の働きで起こっているのではなく、深層心理の次元で起こっている出来事であり、劣った存在に対して加害行動を取るように思考パターンを強化されていった結果なのです。だから、学校の先生が、「虐めは悪いこと」と、言葉を用いて教育しても、理屈では分かっていても、根本的な解決にはならないケースが多々認められるのです。「虐めの問題は根本的に解決することが不可能」とすら言われることがあるのも、このためです。虐めや幼児虐待といった、弱者を攻撃する思考パターンが、無意識のうちに働いて、理性によってコントロールできなくなる現象については、別に項目を立てて書きます。ここでは、人間の思考の大部分は無意識のうちに行われていて、意識はそれをモニターして、自己観察に基づいてフィードバック制御しているだけで、深層心理の働きの一部しか人間は意識することができないので、深層心理を意思の力でうまくコントロール出来ない状況が生まれることもある、と理解していれば十分と思います。


 アスペルガー症候群に話を戻しましょう。この診断を受けた人に向かって、「最近どうなの?」と曖昧な質問をすると、「どうって?」とよく問い返されます。「体調のこと? 友達づきあいのこと? それとも勉強のこと? いったい何の話をしているの?」といった反応が返ってくるのです。推察する能力が低いので、具体的に何を質問されているのか見当が付けられず、本人も不安なんですね。意識上で言葉を用いて物事を考える能力には、ほとんど問題が認められないのに、無意識のうちに情報を整理する能力が、うまく機能していないことが原因です。

 妥当な思考のパターンを無意識のうちに選別する、直感的な連想能力が育たない原因として、幼少時のエンパシー能力の習得が不完全なままの状態に置かれていることが考えられます。アスペルガー症候群と診断される人は、他人が何を考えているのかよく分からないため、人付き合いに抵抗を感じて戸惑うことも顕著な特徴です。ジェスチャーや表情、他人との距離のとり方など、言葉以外のコミュニケーションのことを、エンパシーと呼ぶのですが、この能力が未発達のままの人が多いのです。その結果、極端に空気が読めないように見えることも、珍しくありません。

 じつは、これにもうひとつの重要な要素が関わって、アスペルガー症候群だけでなく、自閉症の問題がうまく社会的に解決できなくなって、自閉症の診断が下される頻度が大幅に増加する傾向を見せていることに、ほとんどの専門家がまだ気付いていません。アスペルガー症候群に該当しない現代人でも、エンパシー能力、つまり、言葉を用いないレベルのコミュニケーション能力が、極端に低い人が急速に増える傾向を示しています。そのため、アスペルガー症候群の人が、どこまでの事柄なら理解できて、どこから理解出来なくなって躓くのか、うまく推察することが出来ないのです。上の例で考えるなら、そもそも、症状がある人に向かって、「最近どうなの?」と問いかけてはいけないのです。そんな曖昧な言い方では会話が成立しないことを、話しかける側があらかじめ予想して、相手が困らないように気遣いを見せるのが親切というものでしょう。「このぐらいの察しがつかなくてどうするの」「理解できないのはおかしい」といった、否定的な態度を取ること自体が、明らかなコミュニケーション能力の低下だということを、認識出来る人が減ってきています。これは、小さな子供と話をする場合と同じです。相手に理解できない言葉や表現を使って話しかければ、コミュニケーション能力に問題があると受け取られてもしかたがないでしょう。つまり、現代人のエンパシー能力の低下が、自閉症アスペルガー症候群の問題を際立たせてしまっています。常識的なフォローをしたり、症状が改善するようにうまく相手を誘導してあげる教育的な能力が、著しく低くなってきているのです。自閉症児の改善は2歳頃までの環境が非常に重要ということが分かってきているのですが、大人の側が教育する能力が重要な鍵を握っているのです。現代人のエンパシー能力の低下が顕著に現れるのが、動物や赤ちゃんと接する場面です。


 動物には言葉が通じません。考えを表情から読むこともほぼ不可能です。それでも、エンパシー能力が発達している人は、自然と気持ちが分かるものです。たとえば、飼っている犬が、その日に限って散歩したがらないのを見て、「今日は機嫌が悪いみたい」と言った友人がいるのですが、私は犬をちらっと見て「食中毒でしょう。こっそり何か悪いものを拾い食いして、お腹が痛くなって、バツが悪いみたい」と指摘しました。友人は、見ただけでそんなことが分かる筈がないと、私の言葉を信じなかったのですが、散歩中に下痢をして、はじめて私の指摘が正しかったことを理解しました。斎女(巫女)の私は、普通の人と違う感受性を示すことがありますが、犬語が理解できるわけではありません。その程度のことは、勘がいい動物が好きな人ならば、見れば自ずと分かるものなのです。こんなこともありました。赤ちゃんがなぜ泣いているのか分からずに、オムツを見ようとした友人に向かって、「髪の毛を握らせてあげて」と言って、彼女の髪の毛につかまらせたら、すっと泣き止んだのです。赤ちゃんは、慣れない環境の中に連れ出されて、ストレスを受けて不安を感じたので、母親にすがりついて安心したいと思っていたのです。猿の赤ん坊は、母親の毛を掴んでしがみつきます。人間の赤ちゃんも本能的に母親につかまって安心感を得たい本能を持っているのは同じです。しかし、髪の毛を握らせる習慣を持っている現代の母親はほとんどいません。そのため、ストレスを緩和する術がない状態に置かれて、泣き止むことが出来なくなっているケースがよくあるのです。女にとって髪は命だから、むやみに短く切ってはいけいなという認識はあっても、髪の毛の重要な活用方法は、すっかり見失われてしまい、現代の母親は察しが悪くなりすぎているのです。あまりこの言葉は使いたくないし、誤用確定なのですが、簡単に言えば、アスペルガー化している』、とも言えそうです。

 これは、現代の物質文明を支えてきた、西洋型の思考様式が生み出した、『言語思考至上主義』弊害と言えます。「言葉を話すように知的に進化した現生人類は、動物的な本能的直感などという、くだらない原始的で劣ったコミュニケーション手段など、用いる必要も学習する必要もない。」このような考え方が、気付かないうちに水面下で蔓延してしまった結果、起こっている悲劇と言えるでしょう。言語思考至上主義の発想が、赤ちゃんと母親の正常なコミュニケーションの機会を奪って、赤ちゃんの情緒やエンパシー能力が発達するのを妨げているのが現実です。泣いている我が子を見ても、なぜ泣いているのか理解できず適切な行動が取れない、著しく察しが悪い親の姿を見ても、何の疑問も感じない一般的な現代人の感覚は、人類の原初的な生存の様式『プロトカルチャ』標準状態から、大きくズレてしまっているのです。知的情報処理能力に著しい欠陥を抱えた、脳の発育が不完全な親が大半という危機的な状況に、何の違和感も抱かない現代人の察しの悪さは、問題がありすぎると感じます。

 なぜ、現代人の間に深層心理の機能不全が起こって、一般化して定着しているのでしょうか。すでに察しの良い皆さんは推理していると思います。「物事を察する能力が低い親に育てられて、赤ちゃんのときに、情緒やエンパシー能力が発達する機会を失ったことに原因があり、エンパシー能力が未発達な子が、成長できないまま親になって、深刻な悪い連鎖が繰り返された結果」だと。しかし、プロトカルチャというものは、本能や深層心理によって構成されていて、無意識のうちに自律的に機能しています。人間の意識的な思考で、簡単に歪んで機能不全を起こすようなことは、通常はありません。この現象の発生原因は、現代人の言語思考至上主義の発想にあるわけではないのです。現代人特有のエンパシー能力の著しい低下を含む深層心理の機能不全は、『動物園現象』のひとつとして説明が可能です。

 『動物園現象』という言葉は、私の父が現代人が示す傾向を観察した結果、問題点を説明するために作った、その場限りの造語なので、ネット検索してもヒットしないと思います。動物園の檻の中という、不自然な人工環境の中で育てられた高等哺乳動物は、普通に餌を食べて寝起きするのは何の支障もないように見えながら、出産して子育てをする段階になって、突然育児拒否などの深刻な問題行動を取ることが知られています。母親としての本能が正常に発現しないのです。察しが悪いどころの話ではありませんね。現代人の生活も、不自然な人工環境が生み出すさまざまな問題を抱えているため、動物園の檻に入れられた高等哺乳動物と同じような、深層心理の歪みを抱えてしまう傾向が見て取れるのです。プロトカルチャ、つまりは人類の原初的な標準状態の文化形態(原始時代の文化形態ではない)と、現代人の生存の様式の間に、大きなズレが生じた結果、深刻なストレス社会が形成されています。ところが、自然調和した標準状態の人類のライフスタイルがどのようなものか、現代人にはまったく見えなくなっているため、問題性に気付けないのです。「自然に帰れ」とカッコよく台詞を決める人は大勢いますが、具体的に何をどうすべきか質問しても、答えが示せない人が多いのは、プロトカルチャの実体が見えていないことが原因です。この問題は、生得的真理について語る機会があれば、いつか書こうと思っています。


  現代人特有の推察能力の低下について、人類の進化という切り口からも、少し観察しておきましょう。人間が無意識のうちに察して理解するには、深層心理の次元で働く思考パターンが、脳の神経回路網のパターンの形で、予め存在している必要があります。赤ん坊は何かを手に握り締めていると落ち着きます。だから玩具を持たせておくのが現代人の習慣です。ところが、本来は玩具ではなく母親の毛を持たせておくべきなのです。猿だった頃は、母親の体毛を掴んで体にぶら下がっていたのですから。現代人の母親が、胸に抱いた我が子に髪の毛を掴ませて安心させることを察することが出来ないのは、その思考パターンが、無意識の次元に存在していないからです。進化の過程で、体の毛が抜け落ちていき、それに伴って本能も薄れていったのです。母親の脳にはっきりとした形で存在せず、赤ん坊の脳には名残があるので、呼応関係、心のキャッチボールに相当するスキンシップが成立しない状態になっているようです。もちろんそれを補うのが、生活文化のはずですが、現代社会は古い時代の知恵を迷信と考えて継承しない傾向があるため、さまざまな問題が生じているのです。

 アスペルガー症候群と誤って診断される場合は、さらに人類が知的な方向に進化したことによって、限られた意識容量ではモニターできない深層心理の領域が大きく拡大していってしまい、発達障害の傾向を強めていると言って良いのかもしれません。無意識の思考パターンを形成する神経回路網の発達に、障害が発生している可能性があるのです。エンパシー能力は、普通に人間に備わっているのに、現代人はほとんど使っていないので、察しの悪い親に育てられた子は、ほとんど発達しない状態に置かれてしまいます。相手の考えを察して理解する能力が発達しなければ、無意識の連想能力を鍛える機会を持つことが出来ず、「最近どうなの?」と曖昧な質問をされただけで、頭の中が混乱するようになってしまうのです。


 脳の神経回路が使用されず、未発達なまま置かれてしまっていることが顕著に現れる、動物や赤ちゃんと接する二つのケースについて説明したので、話題にしている現象のほうは理解できたと思います。でも、脳を使う・使わないことが、どんな結果をもたらすのかは、お箸がうまく使えなかった10歳の子供の例だけでは、十分把握できない人が多いと思います。そこで、見るだけで結果が判断できる絵を描く能力を例に説明してみましょう。人の顔を描こうとしても、「小学生の落書きみたいな絵しか自分には描けない」と思っている大人はかなりいます。「自分は絵の才能がない」のだと考えて、あきらめている人が多いようです。ところが、そんな人でも、顔写真を上下反対にして机の上に置いて、それを純粋輪郭画法(blind contour drawing)で模写するトレーニングを、一日一時間一週間続けてもらうと、ほとんどの人が、それらしい人物画を描けるようになります。何が起こって絵が描けるようになったかというと、左脳から右脳に、脳の神経回路の使い方を切り替えることを学んだ結果なのです。左脳はデジタル的な処理に秀でているので、左脳が優位の状態のときには、記号的な漫画のような人の顔しか描けません。右脳はアナログ処理が得意なので、右脳の神経回路を使うと、芸術的な絵を描くことが可能になるのです。面白いことに、右脳の神経回路が優位になると、思考のモードが切り替わり、絵を描くことが楽しくなります。熱中すると時間感覚が無くなります。気付かないうちに時間が経っていた経験をする人がほとんどです。これは、時間感覚は左脳が担当しているので、右脳が優位のうちは意識しづらくなるからです。また、周囲の人の話し声が、小鳥の声のように、意味を持たないものに感じられるようになります。絵を描くことに夢中になっているときに話しかけられても、気付かない人は珍しくありません。右脳は言語を理解できないから起こる現象です。こういった事柄は、『脳の右側で描け』のなかで詳しく説明されているので、興味をお持ちの方は読んでみてください。無意識レベルで作動している脳の神経回路網の使い方は一通りではなく、極端な場合には、右脳・左脳の働きの違いといった形で現れて、脳のモードの切り替えとして説明できるような、顕著な機能の差となって現れることもあることが理解できたと思います。

 絵を描くときに、思考モードが切り替わる現象を観察した結果、お分かりと思いますが、脳の神経回路網は、遺伝子情報系がプリセットしてくれていても、積極的に使わないと、小学生レベルの未発達な状態のまま、成長が止まってしまうことがあるのです。自分は絵を描くのが苦手だと思って使わないで逃げていると、いつまで経っても成長しませんが、人の顔写真を上下反転させた状態にして模写するといった、常識はずれのちょっとした工夫をして、純粋輪郭画法といった積極的なトレーニングをすることで、思考モードを切り替えるコツを会得すれば、短時間で発達させることが可能な場合もあるのです。これは、なにも左脳と右脳の切り替えだけではありません。エンパシー能力についても、多くの現代人は使わないから、同じ状況に置かれているのです。自分は人付き合いが苦手だと感じて、人付き合いを避けているのは、絵の才能がないと思って、絵を描くことを避けるのと同じような結果をもたらします。現代人は、人工的な偏った不自然な環境で育てられるため、脳の特定の神経回路が、未使用・未発達のままに捨て置かれて、エンパシー能力の欠落などの形で現れているのが現実です。その極端なケースを観察した一般の人が、アスペルガー症候群という発達障害と間違って理解しているケースも見られるのが実態なのです。


 深層心理学の世界では、未発達な深層心理はコンプレックスとなって、心に歪を生み出すことが知られています。未発達な深層心理って、具体的には何のことでしょうか? 勘の良い人はすでにお気付きと思いますが、未使用・未発達の脳の神経回路網と、未使用・未発達の深層心理は、同義です。つまり、メンタルヘルスケアをすれば、エンパシー能力の欠落など、『動物園現象』の結果として生じた空白部分を埋め合わせることは可能なのです。アスペルガー症候群と診断されたケースでも、自ずと解消される可能性を含んでいるのです。もちろん、脳に物理的な機能障害の原因がある場合には、この考え方は適用できないこともありますけどね。

 一番効果的なのは、コミュニケーション能力の学習訓練です。子供がよくやるままごと遊びは、何の意味もなく育まれてきた遊びの文化ではありません。人間は脳の中に、このような遊びの文化を作り出す要素を、プロトカルチャとして生得的に持っていることが、分かってきつつあります。ユングの言うところの、集合的無意識の正体がより具体的に解明されつつあると考えてもいいでしょう。遺伝子情報系が保持している脳の神経回路網の設計図に依存しているため、品種(人種)が異なる民族間では多少の差異が認められることも、ある程度見えてきました。ままごと遊びという、生身の状態で相手と触れ合って、交流して遊ぶRPGロール・プレイング・ゲーム)を通して、子供のエンパシー能力は大幅に向上していきいます。

 この問題に真正面から取り組んでいる、一般の人に分かりやすいアニメに『ウィッチブレイド』があります。パッケージデザインなどから直感的に、戦闘をテーマとした殺伐とした暴力表現の多い作品、という印象を受ける方も多いかもしれませんが、日本語版のアニメのテーマは、そんな単純なものではありません。親子の心の絆とは何か。人工環境の中で育てられた人間は、どのような心の問題を抱えるのか、分かりやすく描かれています。そして、心温まる素晴らしいラストシーンを迎える作品です。同じような母性の回復をテーマとした優れた漫画作品として、『REX 恐竜物語』(CLAMP)を推薦しておきます。『REX 恐竜物語』の映画のほうは、残念ながら多くの人の考えが加わってしまったのか、テーマが分かりづらい構成になって、ピンボケしています。漫画版のほうがはるかにコンセプトが分かりやすくて秀逸です。母親との触れ合いを欠いて、顔を知らず絵を描けない少女の目の前に、恐竜の卵が出現して、恐竜の赤ちゃんを育てているうちに、母親の心について学んでいき、失われていた母性を回復するという、心温まるものになっています。

 上記二作品は、優れたメンタルヘルスケアの効果を備えていると思いますが、エンパシー能力は、紙媒体、映像媒体では、十分に伝えることが出来ません。実際に直接触れ合う環境でトレーニングしていかないと、観念だけではこの問題は根本的な解決が不可能です。私は自分で出産して子育てした経験がなく、今後もその予定はありませんが、子供に恵まれない夫婦に卵子を提供する形で、若くして8人の、自分の遺伝子を受け継ぐ子供達を得ています。保育者の視点から育児をサポートしているので、ある程度のことは分かっているつもりです。養母となる母親達の、生まれてからずっと使いこなせていなかった、眠ったままの脳の神経回路網が、うまく使える状況まで持っていくには、直接エンパシーを用いたコミュニケーションをとって、鍛えていく必要があります。未使用・未発達の深層心理を積極的に刺激して、心の発達を促すには、優れた感受性・精神共感能力を備えた人との実際の交流が、絶対に必要になります。少子化によって学校の先生が余る傾向があるようなので、保育園や幼稚園の先生にエンパシー能力のトレーナーの技能を習得させて、深層心理教育の不備を解消していくことが、望ましいと思います。そのための教育者を育てる機関の設立を考えている人もいるようです。しかし、私は遺伝子情報系の中に組み込まれた、人の脳の神経回路網の設計図、プロトカルチャ本体の全体像を把握することのほうが先と考えているので、自分が好きな研究と、自分の遺伝子を受け継ぐ子供達を保育することで手一杯です。残念ですが、とても他の保母達の教育にまでは手が回りそうもありません。