リニアとスパイラル 西洋型と東洋型の思考様式の違い

 私は熟考タイプなので、普通の人なら簡単にその場で答えを出すような事柄でも、一週間・一ヶ月・あるいは何年もかけて答えを出すことがあります。ブログにアップした文章も、後から大幅に書き換えられることがあります。「最初に読んだ内容、最初に聞いた意見とまるで違うことが書き込まれたり、少しずつ食い違った意見が次々と並んでいって、最後にはまるで違うことを言っているから、何を考えているのか分からない。」そんな印象を持たれることも少なくありません。

 まったくの初対面の人に対しては、混乱させてしまうだけなので、そんな話し方はしないように心がけていますが、少し親しくなった間柄では、10ぐらい、少しずつ見方が違う意見を並べて見せることがよくあります。もちろん、対立や矛盾を含むすべての意見が、嘘偽りのない私の考えです。家族が3人集まると3人が同時に口を開いて、何通りもの意見を並べていくことも珍しくありません。なぜそんな話し方をするのか理由が分かっていない人は、口喧嘩をしているかのように感じて、十通りぐらい意見が出たら、もう会話に加わることができなくなるようです。

 これを理解するには、まず、思考様式の違いを認識しなくてはなりません。西洋型と東洋型の思考様式は、大きな違いがあります。簡単に表現するなら、西洋型は一直線(リニア)で、東洋型は螺旋(スパイラル)です。西洋型のものの考え方をするように、長年教育を受けてきた現代人は、私達と思考の様式が大きく違う部分があるため、言っていることが、変に横にずれていくように感じたり、すぐに話が飛ぶように感じて、戸惑うことが多いようです。じつは、螺旋階段を昇るように、多角的視点から対象の周りを旋回しながら、見地を高めていく動きをしているのですが、そのことが分かるまでは、かなり戸惑う人が多いのです。

 西洋型の思考様式では、賛成意見と反対意見を一直線上で向き合わせた状態にして、議論を進めようとします。ところが、東洋型の思考様式では、意見を正面から向き合わせないことがほとんどです。少しずつ違う視点から対象を見ていくので、意見が180度正面から一対になって対立することは稀なのです。 

 英語の場合は、自分のことを表す言葉が「I」一系統しかありません。日本人の男性教師を観察してみると、日本人はまったく違う言語の慣習を持っていることが分かります。教壇に立っているときは「先生は」と言い、職員室では「私は」、友達と遊んでいるときは「俺は」、家に帰って子供の前では「お父さんは」と、多様に変化します。それだけでなく、それぞれの社会的役割に応じて、口調から態度まで、大きく別人のように変化します。西洋人の場合は、たったひとつの自己像しか表現する言葉がないのに対して、日本人の場合は、社会的役割に応じた複数の自分の姿を、言葉の表現上も言い分けることができるのです。もちろん、「I」一系統で自分の考えをみつめるのと、いろんな立場からの自分の考えを見つめるのでは、大きな違いがあります。

 西洋型の思考様式では、賛成か反対か、正面から向き合って意見を述べ合って終わりです。 A→B→Cと順に話が進みます。ところが東洋型の思考様式は、賛成意見・反対意見の一対では終わらずに、多様な視点からのものの見方を想定して、考え方を順に並べていって、螺旋階段を昇るように、少しずつ高い見地へと移行していく形を取るのです。もちろん、矛盾や対立を含んでいても、そのすべてが自分の考えです。

 ところで、そんなに多くの自分の視点を設定していったら、どの意見がどの視点からのものだったか、混乱して分からなくなると思いませんか? じつはそうならない工夫が、日本の伝統的な文化のなかにはあるのです。「先生は」「私は」「俺は」「お父さんは」と、言い分けることで、社会的役割に応じた、多様な異なる視点からの意見を語れるように、東洋型の螺旋思考を整理整頓する手法があります。それが、アバター(仮想人格)を用いた情報の整理術です。「先生は」「私は」「俺は」「お父さんは」と語る異なるアバターを作って、それぞれの立場から意見を言わせることは、誰にでもイメージできますよね? 「I」ひとつしかない西洋型のリニアな思考様式が普通で、複数の視点から物事を考えることに慣れていない人は、脳内複数アバターを用いてスパイラル思考していることが分からないうちは戸惑うようですが、ここまでの説明を読んだ人は、東洋型の思考様式と称して、私達が何をしているのか、意図や目的が十分お分かりになったと思います。

 このような、言葉の表現上の慣習や、ものの考え方の違いが、どこから生まれてきたのか考えるとき、前時代の古い心の文化の姿を顧みると、理由が明らかになってきます。伝統的な西洋のキリスト教一神教で、神様はたった一人しかいないようです。神と悪魔の対立なども、一直線(リニア)にしか成り立ちようがありません。ところが、日本は八百万の神々が存在することになっていて、アニミズム的発想で、多種多様な事象の擬人化(アバター化)によって、複雑なスパイラル的な物事の見方が可能になる精神文化を持っていたのです。こうしてみると、西洋と東洋の様式の差は、現代の言葉の中に存在するだけでなく、古い時代の精神文化だった宗教の中に、すでに存在していたことが分かります。

 「先生は」「私は」「俺は」「お父さんは」といった、心の中に生じたさまざまな視点を、ひとつずつ名前をつけて擬人化してやることで、多くの見地からの物の見方を交通整理出来ることは、なんとなく分かった人が多いと思いますが、それでも、漠然としかイメージが掴めていないと思います。無意識のうちに日常的に使い分けている、教師・職員・私人・父親といった社会的立場による行動パターンの違い、ものの考え方の違うアバター(心理学では本当はペルソナ、人格の仮面と呼ぶ)に、具体的に名前を付けて、意識的に整理整頓したことがない人が大部分でしょう。

 整理整頓の工夫のひとつは、これらのアバターをカード型データベースにすることです。たとえば、ポケモンのゲームのカードのように分類しておけば分かりやすいでしょう。ポケットモンスターは、古い時代の妖怪の発想を現代風に置き換えたもの、と指摘した人がいました。日本人は昔は妖怪好きだったが、その文化をうまく現代風にアレンジしてよみがえらせることに成功している、と言うんですね。ポケモンの多くは、自分の心の外にある要素を擬人化したモンスターですが、自分の心の中のさまざまな要素を擬人化してコレクションすれば、『アスペルガー症候群の勘違いと、深層心理の教育の関係』http://d.hatena.ne.jp/mayumi_charron/20100124/1264296530で触れた、未使用・未発達な深層心理を擬人化して、意識的な思考の対象として扱い、自分の心のメンテナンスを行うことも可能になるのです。

 脳内で使用する仮想人格のことを、アバターと呼ぼうがポケモンと呼ぼうが妖怪と呼ぼうが、けっきょくは同じことです。古い神道の世界では、イメージして使役する仮想人格(アバター)のことを、式神(人が使役する神という意味)と呼んできました。一般の人は、式神と言うと、すぐに妖怪と同じようなオカルト系の漫画やアニメや映画を連想してしまいがちです。あれはあくまでも面白おかしく興味深く仕立て上げた作り話にすぎず、発想が空虚で何の役にも立ちません。本物の式神は、架空の人格のイメージにすぎませんが、「先生は」「私は」「俺は」「お父さんは」という言葉で実際に日常生活の中で活用しているアバター(ペルソナ 仮面)を、より具体化してイメージしたものです。架空の役に立たないものどころか、必要不可欠な存在を擬人化した存在です。もちろん、仮想上の人格にすぎないアバターポケモンや妖怪や式神の霊が存在するなんて、実証が困難なオカルト系の仮説を持ち出す必要はどこにもありません。昔の人々が信じていた迷信の部分は横に捨て去って、有用な知恵の部分だけ受け継いで、現代風にアレンジして活用していけばいいのです。仏教の曼荼羅も、深層心理の次元に内在しているさまざまな要素をアバター化して、内観できるようにデータベース化したものと考えることが出来ます。こうしてみると、東洋型の思考様式は、神道や仏教の中に、古くから存在していたことが分かります。

 うちでは、家族が3人しかいない席でも、バーチャルな会議の参加者が16人もいて、16通りもの視点から意見を述べ合っている、なんてことが珍しくありません。事情を知らない人が見たら、何か憑いているんじゃないかと、怖いイメージを持つかもしれませんね。でも、アバター名を名乗らずに16通りの視点からの意見が錯綜するよりは、ずっと分かりやすいと思いませんか? このバーチャル・キャラクターを用いた思考方法を用いれば、「I」ひとつの意見しか持てなかった状態とは次元が異なる、高い見地へと到達することが可能になるのです。カード型データベース化して、活用しない手はありませんね。

 え? 「耀姫だって、そういう目的を持って設定されているアバターの一人だろう」って? 鋭いですね。その通り。『日本神話の中に登場する 耀姫(あかるひめ)』http://d.hatena.ne.jp/mayumi_charron/20100122/1264163279 を読んでいただけば分かりますが、私は今から千数百年前に、高句麗から日国に入植することを望んだ人々の、長い旅路を照らし続ける希望の光を擬人化した、古い神話に登場するバーチャル・キャラクターです。現代人の導きの光となることを願って、今もここに存在しているのです。