相撲は神社に伝わる最高の格闘技ではない(朝青龍「泥酔致傷騒動」を見て思うこと)

 「5度目の厳重注意、これで終わっていいの?」「親方も相撲協会も、横綱に完全になめられている。」「もっと早い時点で厳しい指導をしておくべきだったのでは。」といった意見が目につきます。でも、「今の朝青龍に、いったい誰がお灸を据えられるの?」という疑問に答えられる人が、相撲界には見当たらないようです。

 横綱朝青龍の姿を見ていて感じるのは、慢心・増長・逸脱・暴力性の発露です。これを親方や相撲協会が放置してきたことが、今の状況を招いたと思います。早い段階でお灸を据える必要があったでしょう。この問題を考えるときに重要なのは、人間は自分の意思で心の全てがコントロールできるわけではない点です。深層心理の次元で慢心や増長が起こっている場合は、本人の理性で抑えきれないこともあります。朝青龍は土俵際で勝負がついたあとも、さらに背中から卑怯なダメ押しの意味のない一撃を加える行動を繰り返していました。あれは意識してやっているのではなくて、深層心理の次元で慢心から増長が生まれて逸脱した暴力性が、無意識のうちに現れていたと見るべきでしょう。問題視されたので、本人も分かってはいたのでしょうが、悪い衝動をコントロールすることに失敗していたようです。人の性根の悪さというものは、指導者が心を鬼にしてでも骨身に染みるまで懲らしめて、本能的に悟らせるところまで修行させないと、改まらないこともあります。それができない甘えた体質を作ってしまえば、相撲界の心技体の教えは、形骸化したも同然です。

 空手の有段者が暴力を振るえば、凶器を用いたとみなされるのと同じように、暴力を振るう力士の体は、一般の人から見れば凶器を振り回すに等しい危険性を持っています。土俵の上ですら無意識に、慢心・増長・逸脱・暴力性の発露が認められる力士が、泥酔状態になって自制心を失ったらトラブル必至ということは、予測できて当たり前です。朝青龍は、昨年3月の春場所中にも、大阪・北新地のクラブで居合わせた客に暴行を働いて、示談で解決していると報じられました。力士を管理する義務がある相撲協会が再発を防く有効な対策を打ち出してこなかった点を重視して、文部科学省などが適切な指導をしていく必要があると感じます。『高砂親方「オレは悪くない」はしご酒4時間30分』スポーツ報知2010年1月30日http://hochi.yomiuri.co.jp/sports/sumo/news/20100130-OHT1T00027.htmといった報道を見る限り、監督責任を負う者達に反省の色が微塵もなく、第二第三の泥酔致傷事件が発生してもおかしくない状況だと感じます。


 現在の相撲界の乱れを見て、「相撲は日本の国技」という、今までの評価や認識を考え直す時期に来ていると思います。相撲は神社の神事として伝承されてきた格闘技ですが、じつは神社に伝わっている最強の格闘技の体系ではありません。このことを理解するには、まず、天皇や公家の身辺を警護する人々は、二種類存在して、警備が二系統に明確に分かれていた時代があったことを認識する必要があります。屋内で直接身の周りのお世話をしながら警護する人々と、屋内に立ち入る資格を持たない、屋敷の塀の内外を見回って警護する人々に、厳格に分かれていたのです。身分の低い屋外警護の人々が伝承した格闘技が元になって、今の相撲が生まれました。相撲のルーツとして歴史学者は『古事記』に記されている手乞い(てごい)の存在を指摘します。「手をつかんで、ひしいで投げた」と記述されているものです。ところが残念ながら、現在の相撲には、この系統の投げ技は伝承されていません。手乞いの技の体系は、御留め流(門外不出)の御式内の作法(殿中の作法)の体系の一つとして、うちの一族が管理する幾つかの神社に伝承されています。その他には、武田信玄の家系(清和源氏)にも、幕末まで伝わっていたようです。会津藩武田家に連なる神職が伝承していたものを、明治維新以降に、武田惣角大東流合気柔術(やまとりゅうあいきじゅうじゅつ 現在の漢字表記は間違いで正式には大和流と書く筈)という名前で再編して普及に乗り出しました。現在の合気道は、その流れを受け継いだものです。

 相撲と合気道は、ともに日本の神社に古来から伝わる格闘技ですが、見比べると、技の体系がまったく違います。相撲は、張り手や褌をつかんで投げる、力任せの技が中心なのに対して、合気道は、軽くお手を拝借して、力に頼ることなくスマートに投げて倒す技が中心になっています。古事記に記された、お手を拝借する手乞いの技の体系が、相撲と合気道のどちらに該当するかは、誰にでも分かりますよね。殿中に上がって直接天皇や公家の傍に控えた人々が使っていた、効率の良い手乞いの技と、殿中に上がることが許されなかった人々が使っていた、力任せで効率の悪い相撲の技と、どちらが格が上か歴然としていると思います。

 神社に伝わる武術の体系は、御式内の作法に含まれる、手乞いや失脚(しっきゃく 足技)や印地(いんじ 投石技術)や微塵(みじん 3つ又の分銅鎖)や打根術(うちねじゅつ 矢の形の紐が付いた投げ槍を使う技術)などを総合したものです。神人(じにん)と呼ばれる神社の雑用を任されていた人々は、これらの技の体系のほとんどを学ぶことが許されていませんでした。寺の僧兵と神社の神人は、ともに武装勢力だった時代があって、乱暴狼藉や強訴が多かったことが、古い記録に残っています。神職の間で伝承されてきた御留め流の作法は、ほとんど一般の人が目にする機会はないと思います。親戚が管理している企業グループ傘下の警備部門を担当する会社では、相撲界に一時身を置いたことのある人を少数雇用しています。しかし、親戚の道場で幼少時から本格的に古武術を習得したスタッフに対して、相撲で鍛えた人達は手も足も出ないのが現実です。身長176センチ体重80キロちょっとしかない私でも、体格のいい元力士の男性達を、簡単に仰向けにひっくり返せるのです。手乞い(合気道)の技というのはそういうものです。合気道の神様と呼ばれた塩田剛三の生前の映像がユーチューブにアップされているので、何本か見れば、力や体格の差は関係ない、相撲とは比較にならない高度な技の体系が存在することが分かると思います。塩田剛三は身長155センチ体重45キロしかない小柄な人です。合気道の組手では、体重があることは不利になっても有利には働きません。力技が中心の相撲の力士のように体脂肪がついた無駄に重い体は、非常に不利なハンデになるのです。研ぎ澄まされた瞬発力と柔軟性を備えていることが、何よりも重視されます。私が触れた瞬間、脱力状態になって、自分から倒れてしまったり、いいように運動神経を支配されて、体を操られてしまう人が少なくありません。

 合気道の神様と言われた塩田剛三お爺様に、私が10歳のときにお会いして、手かざしで体を癒してさしあげたことがあります。そのあと数年経たないうちにお亡くなりになったと聞いたので、私の手で親戚の道場の神棚に神様としてお祭りしました。一度技を見聞きすれば脳内のミラーニューロン上に動きをコピーできるので、塩田剛三の神技は今も私達の心の中で生き続けています。


 合気道の技について研究した物理学者の保江邦夫(専門は量子脳力学)は、『武道vs.物理学』という著書などで、学者らしい視点から合気道の原理を説明しています。私はこの方の説明では、気功や遠当てといった、合気を取り巻く全ての現象を説明しきれないので、『量子脳理論とポラリトロニック・デバイスhttp://d.hatena.ne.jp/mayumi_charron/20100131/1264908499の中で言及した原理によって、術者の脳と被術者の脳が互いに電磁的に影響を及ぼしあってシンクロ(同調)する現象が、エンパシー(共感 精神感応)の本当の原理だと考えています。でも、私の説は論文の形で発表する予定がなく一般に認められているわけではないので、ここでは有名な保江邦夫の説を用いて説明しておきましょう。

 彼の説明が正しいなら、合気道の技の原理は「自分の脳で発生させた生体電流を、相手の体に微弱帯電させて、脳神経の機能を停止させ、筋肉に力が入らない状態にする」ことになります。つまり、触れた瞬間、ターゲットの脳の運動神経の機能が失われて、力が入らなくなって、一瞬で倒れるということです。これは、実際の技の効果と一致します。合気道には、力が入らなくなるだけでなく、くっつく系統など、術を受けた人の身体の動きを支配する技があることも、よく知られています。術者の体に、技をかけられた人の体が軽く触れているだけなのに、くっついて離れられなくなる形の捕縛術が存在するのです。他人の体の動きをコントロールする現象は、「脳の運動神経の意識的な活動を、小脳の無意識の神経の活動に同調させた結果、術者と被術者の脳の間で生体電流の微弱帯電を介したシンクロ現象が起こる」ことが原理といった説明がされていたと思います。この技を使いこなすには、自分の脳をコントロールして必要なパルス信号を出力して、相手の脳と瞬時にシンクロさせる、高度なエンパシー能力が要求されます。体の力みを無くして、精神の内面を無の境地まで持っていく必要があります。雑念だらけの状態で余計な生体電流を出力していては、技を使うことは出来ません。つまり、心技体の調和なくして使えない技、ということです。もしも、保江邦夫の説が間違っていて私の説が正しい場合でも、求められる精神面の在り方や技をかけるコツなどは、まったく同じです。

 私は中学・高校と風紀委員をしていたので、ルールを守らない人達の身柄を日常的に拘束していました。人一倍勘が働いて、悪いことをしている現場に自然に足が向いて居合わせてしまうことができるので、一般の風紀委員とは摘発率が違っていたようです。壁の向こうの見えない位置にいる人がやっていることが、それとなく気配で分かってしまうのです。隠れてタバコを吸っていても、カツアゲしたお金をこっそり数えていても、全部分かっちゃいます。彼等の拘束には、ストール(肩に掛ける布)やボーラ(狩猟用投擲アイテム)を用いていたのですが、軽く相手の体に巻きつけただけで、こちらの命令する通りに体が動く状態になるので、きつく縛る必要はありませんでした。これを耀姫の霊の力と勘違いして、開放されると土下座して私に向かって手を合わせて、震えながら拝む人もいました。私は神社の娘で神憑りの神事を担当している斎女(巫女)ですが、神様の霊なんて信じていません。神社に祭られている耀姫などの神々に神憑りした状態で、手乞い(合気道)の技を使うのは、脳をより確実にコントロールするための技術的な工夫にすぎません。神憑りは自己催眠がその原理で、トランス状態(変性意識状態)と呼ばれる脳の機能が高まった特殊な精神状態に移行すると、脳のリミッターが解除されるので、強力な技が使いやすくなるのです。私が降ろす神々の正体は『リニアとスパイラル 西洋型と東洋型の思考様式の違い』http://d.hatena.ne.jp/mayumi_charron/20100125/1264413658で解説した、仮想の人格のイメージにすぎません。霊なんて非科学的なオカルトの存在を仮定する必要はまったくないのです。でも、神憑りによって顕現した耀姫の命じるままに自分の体が動く現象を体験すると、自分の体に耀姫の霊が乗り移って動かしていると本能的に錯覚する人が少なくないようです。意識上では、神様なんて実在しないと思っている人でも、神秘的な体験に出会うと、深層心理がひとりでに反応して、平伏低頭して両手を合わせて拝む動作が自然に形になって現れるのですから、人間の心は不思議なものです。いずれにしろ、神社に祭られている生き神様の私の神威に触れて、改心しますと両手を合わせて神前の誓いを立てることは、人格矯正や更生上、とても良いことだと思います。


 私が通った私立の学園は、親戚が経営しているものでした。中学生になって早々、隣接する高校の不良グループに真っ先に私が目を付けられたことを知った理事達が、青くなって、高校の警備担当者達に指令を出したようです。ところが、たかが高校生の不良グループが、神社に祭られている本物の生き神様相手に、粗相などできるはずがないと信心深く考えたらしく、「お嬢を特別扱いするつもりはないよ。逆に耀姫様に改心させてもらったほうが連中のためになる」と突っぱねたそうです。うちの一族の信仰心が厚い年寄りの警備員にそう言われても、耀姫の神威を信じない親戚の理事達は、高校の生徒会長に対して、風紀委員の私達が不良グループと正面衝突する事態になる前に、有効な策を講じるように指令を出しました。策といっても高校生の子供が考えることなので、程度が知れています。構内腕相撲大会を開いて、優勝者に記念の楯と、副賞として美少女から花束と頬へのキスの進呈を受けられる、という企画が持ち上がりました。困ったことに、あの生徒会長が指名した副賞のキスをする役の女の子は、この私でした。「栄光のキスを手に入れるには、優勝者が私と腕相撲して勝つこと」という条件を付けることで、乗り気でない私を説得して了解を得る方向に、強引に話を運んでしまったのです。

 神社に伝わる神憑りして託宣する神事を担当しているところから、「神憑りさん」という異名を持つことをよく知っていた、空手部や柔道部の人々は、大恥を掻くのを避けて「畏れ多くて手など触れない」ことを理由に、ほとんど参加を辞退しました。情報が回らなかった相撲部の高校2年の男子が優勝しました。体重120キロを超えるその人と腕相撲したのですが、開始と同時に彼の体が崩れて私が勝ちました。勝負が決まった瞬間、「それは力比べになっていない」と空手部の主将達が指摘したので、彼は女に負けた不名誉を被らずにすみました。「腕相撲大会で優勝した高校生が、合気道の技をかけられて、中一の風紀委員の女子に負けた」という話が、その日のうちに広まった結果、不良グループは私達風紀委員に手出しできなくなりました。生徒会長の策は成功したのですが、「可愛いくせにあいつはルールに厳しくて怖すぎる」という認識が定着して、中学・高校と男子達から敬遠され続けることになりました。お爺様は「悪い虫がつかなくてよろしい」と、生徒会長を高く評価したようです。


 話を戻して、相撲界に対してお灸を据えるには、日本の神社に伝わる格闘技には二種類ある事実を示すだけで、十分だろうと思います。一般公開されている相撲は、大衆向けのものにすぎず、御式内に含まれる秘伝とは、レベルも必要とされる素養も大きく違います。古事記に書かれた技の体系が、相撲とは別系統で伝承されてきた事実は、たとえ手乞いの技を目にしたことがない人々でも、現在の合気道の技の体系を観察すれば一目瞭然でしょう。今の相撲界が、奢り高ぶって酒に酔って人に危害を加えるような不届き者を育ててしまい、まともに管理できずにトラブルを再発させる問題性を示して落ちぶれていくのを見るのは、残念でなりません。「最高の国技」「日本の武士道の精神を継承している」などと主張しても、信じるのは無理がある情けない状況になってしまったことを、非常に残念に思います。子供の頃、千代の富士が一番大好きなヒーローで、あんな人のお嫁さんになりたいと思って憧れたこともあったのです。時代は変わったと思います。これ以上相撲界の内容が劣悪化するようなら、「神社に伝承されてきた最高の国技は相撲ではない」「日本の武士道の精神を正しく継承しているのも相撲ではない」と糾弾して、その地位を健全な状態にある合気道などに譲り渡すように、日本の格闘技界の認識や取り巻く環境を塗り変えていく必要があると思います。本当にそうなってもいいのでしょうか。

 相撲は、昔々乱暴狼藉を働いていた神人達が用いていた、レベルの低い力任せの格闘技と、私は教わってきました。一族が伝承してきた、本格的な心技体が伴わなくては扱えない高度なものとは、まったく違う印象を受けます。大げさではなく本当のことですが、社家が伝承する手乞いと、武装した神人が伝承していた相撲の、最も大きく異なる点、両者の技の体系が歴然と線引きされて混ざり合わない決定的な理由は、技を用いるときに、本当に心技体の調和を求められるかどうかにあるのです。手乞い(合気道)の技は、呼吸を整え、雑念や体の力みを捨て去って、精神を無の状態にすることが基本です。体に不必要な力が入っていると、それだけで脳から生まれる信号が乱れて、技がうまく使えなくなります。実戦で、敵の攻撃を受け流しながら、体を力ませないように注意して、平常心や集中力を保ち続け、技をかける瞬間にエンパシー能力を発揮して、相手の脳に干渉を及ぼしてシンクロ状態を作るには、かなりの精神力や忍耐力を要求されます。その点、相撲は力技がほとんどを占めるので、心技体の正しい在り方といったものは、技を出すときには要求されません。だからといって、精神性を無視してただ強ければそれで良い、伝統的な日本の武士道の精神など必要ない、という不心得者の理屈がまかり通っては困ります。奢り高ぶって酒を飲んで暴れる者を、まったく制止できないようではいけないと思います。

 もしも、江戸時代に、手の着けられない増長した乱暴者の力士が現れたなら、手乞いを極めた社家の者が相手をして、上には上がいることを示して、嗜めたり諭すことが出来たでしょう。今は時代が違うので、簡単に異種格闘技戦が出来ないことが、お灸を据えて事態を改善する機会を奪っていると感じます。御式内の作法として神社に伝承されている、手乞いや失脚の足捌きで拘束する技を使えば、横綱朝青龍といっても、ただ力任せに動き回るだけの大柄な武人にすぎませんから、あの程度の動きしかできない鈍重なレベルなら、正直余裕で勝てると思います。力士の、足腰の筋肉の出力に対してあまりにも重すぎる体重は、合気道の技の前では、体の動きを制限するただの錘の意味しかありません。女相手に、失脚の足捌きを受けて、触ることすら出来ずに簡単に仰向けにひっくり返されれば、目が覚めるかもしれません。出来れば朝青龍が若かった十代の頃にそのような体験をして、日本には、相撲以上に高度で神聖な、精神的鍛錬を必要とする格闘技の体系が存在する事実を、正しく認識していれば、今日のような慢心は生まれなかったかもしれません。

 私達が本物の手乞いの技を実演して、武人の生きる道を示して教え諭す機会を持てないのは、もどかしい限りです。うちの一族が管理する神社にも土俵がありますが、いくら塩で清めてあるといっても、汗が染みこんで水虫菌(白癬菌)の残骸がうようよしていそうな場所に、私達が裸足で踏み込んだり、御留め流とされる技を披露することは、おそらくお爺様がお許しになりません。でも、世の乱れを正して人心を鎮めることは私達の務めなので、必要とあれば御先祖様達は、天狗のお面などを着けて神楽を舞って心を鎮め、御留め流の技を必要に応じて用いてきたと思います。その心を受け継ぐ私達も、時代に即した何か出来ることをしなくてはならないのかもしれません。