人間の知性は動物の知能とは異なるもの(隠された文化の継承)

今から10年ほど前、中学生の頃のことですが、奥池の夏の家の近くで、痩せ衰えていく猫を見かけて、セミの捕り方を教えてあげたことがありました。猫って、犬のように躾けることは出来ない動物ですが、人がすることをじーっと観察していて、レバー式のドアの開け方を覚えたりするんですよね。猫の前で、故意に何かを警戒するような緊張した仕草をすると、何が起こっているのかと、目をきょときょとさせることがあります。だから、猫の注意力を引き出すのは簡単です。そうしておいてから、さっとセミを捕まえて、食べる仕草をして見せたのです。

数日経って、私の部屋の窓辺に現われたその猫が、セミを1匹置いて行きました。次の日もまた1匹。その夏の間はほぼ毎日のように置いていったので、窓辺は蟻の行列も出来ていました。妹達が「猫の恩返し?」と不思議がってました。その猫は、私がセミを食べると本気で信じていたようです。

うちで飼っている犬達は、自分で好きな缶詰を選んで父が作ったオープナーに投げ込んで、好きなときに食事をします。そのオープナーの使い方を犬達に教えるときに、私はトントンと叩いたり、さまざまな仕草をするのですが、犬は缶詰を開けるのに必要な動きだけを覚えて再現します。ところが、人間の子供にオープナーの使い方を教えると、私がトントンと叩いて注意を引く所作や、機械の動作を確認するために指で触る仕草といった、直接缶詰を開けるのに必要のない動きまで、そっくり真似をするのです。私は、父の義手や義足の製作を子供の頃から手伝ってきたので、指で触って振動を感じ取るだけで機械の調子が分かりますが、親戚の子はそんなことなど分からないのに、指で触る仕草を模倣するのです。

動物と人間では、模倣の学習に、このような差が認められます。目的を達成するのに必要のない、意味のない仕草まで模倣するのは、ある意味迷信の発生を意味します。しかし、子供にとってその時点では迷信でも、その奥には、成長していけば気付くだろう、機械の調子を見るという、隠された意味が潜んでいるんですよね。犬達には考えも及ばない、隠された物事こととの関連付けを想定した、一見無駄に見えるような意味のない仕草を模倣し、後々学習が進んだ段階で、隠された情報を発見して理解を深めていく予定学習の能力は、人類の脳が進化していく段階でも、大きく貢献した可能性が指摘されています。

科学知識が発達する前の精神文化である宗教は、一見すると無意味な風習、迷信だらけの知識の体系に見えます。ところが、よくよく観察していくと、その背後に隠された意味が存在しているケースが多いのです。実用本位、実証主義もいいところはありますが、人間の知性は、働いて食事して寝る単調な毎日を繰り返して、ただ表面的に生きていくためだけに存在しているのではないようです。先祖から受け継いできた精神文化のなかには、もっと深い意味を持った知性の領域が存在しているように見えます。それを汲み取ることなく、優れた伝統的な文化を、表面だけ観察して、迷信の塊と決め付けてしまう人が多いことを、残念に思います。