現代人が神に向ける心と神道の在り方について

アメリカ人に向かって「あなたは神の存在を信じますか」と問うと、8割以上の人々が「信じる」と即答するようです。一般的な日本人の感覚からすると「えーそんなに?」ですよね。では、同じ質問を日本人に対して行なうと、どうなるでしょう? 非常に曖昧な反応しか返ってきません。日本人の宗教観を外国人の目から見ると、「無宗教の希薄な信仰心」を持っているように見えるそうです。お正月には神社にお参りし、結婚式は教会で挙げて、御葬式はお寺で行なうのですから、そう見えても仕方がないでしょう。神道を信じているのか、キリスト教徒なのか、仏教徒なのか、行動している本人達すらはっきり自覚していない曖昧な状態なのですから、「無宗教?」と外国人に勘ぐられても当然かもしれませんね。「困ったときの神頼み」という言葉があるように、日常生活をおくっているときには、神様のことなんてすっかり忘れているのに、受験とかスポーツの試合といった、精神的プレッシャーを跳ね除ける必要がある大切な局面になると、思い出したように神社を訪れる人が多いようです。ヨーロッパで生まれ育った母はそんな姿を見て、「日本人の信仰心はきわめて希薄」と受け止めているようです。

人生を決める受験や大切な試合の前に神社を訪れる人々にとって、日頃神様を信じているかどうかはあまり重要ではないようです。何か漠然としたものでもいいから「精神的な支えとなる心のよりどころが欲しい」というのが本音でしょう。祈願して決意を硬めることで、心を強くするのが目的なんですよね。これが、一般的な現代の日本人が神に対して持っている精神文化と考えて良いと思います。手と口を水で清めてから鈴を鳴らして、定められた所作に従って祈願することで、決意を新たにして、強い気持ちを抱いて帰っていく人がほとんどです。祈願した後も希薄な気持ちでいる人は稀ですから、「日本人の信仰心は希薄」という外国人の受け取り方は、理解不足で事実を正しく捉えていないことになるようです。

私は神社に伝わる祭祀で依憑きの巫女(いつきのみこ)を担当しています。巫女舞によって神と身心一体の神遊びの状態になって託宣するのが役目ですが、こういった年中行事の神事は、出来るだけ一般の人目に触れないようにするのが、お爺様達の意向です。いわゆる非公開神事の扱いです。なぜそうなっているかは、いろいろ歴史的経緯など理由があるようですが、一番重要視されているのは、以下のようなものでしょう。神社に祭られている神の多くは、生前の業績を没後称える形で神格化した抽象的な存在です。祈願に訪れる一般の参拝者から見れば、神様は目に見えない精神的な存在であることに意味がある筈です。それなのに、人の体に降臨した神は、目の前に座って呼吸しているだけでなく、御神酒が大好きで、祭壇の御供え物を酔った勢いで飲み食いしながら、ペラペラ人と会話して、キャッキャと笑い転げて、「こんなゲームが発売されたよ」と聞けばゲームに興じるし、挙句の果てはネット上のブログにまでこうして降臨しちゃうのですから、普通の人間とまるで変わらないような振舞いをしていることになります。実際は、神社には厳格な作法が伝わっていて、神と身心一体になった巫女と会話するには、言葉を取り次ぐ役目の者を介する必要があるなど、一般の人から見るととっても窮屈に感じられるかもしれませんが、ここでは感覚的に理解しやすいように、かなり茶化して書いています。

すでに気付いた人も多いと思いますが、神社に心のよりどころを求めて訪れて祈願する現代人の感覚と、千数百年前から伝承されてきた神降ろしなどを伴う祭祀の内容は、完全にズレてきてしまっている、という認識があるのです。そのため「一般の参拝者には見せない」という判断が働いているのです。神様ともあろうものが、酔って人間とまるで変わらない振舞いをするのは、巫女が悪いのかというと、そうではありません。奉納された御神酒を美味しそうに飲んであげることは、神様の大切な役目です。
神社には、神様の生前の姿形や、ものの考え方や、気質や立ち居振る舞いの癖に至るまで、かなり詳細な情報が伝承されていることもあります。神がかりという現象の正体は自己催眠現象です。依憑きの巫女、略して斎女(いつきめ)は、神社に伝承されてきたそれらの情報を頼りに頭の中にイメージした人物になりきっている状態です。気質や立ち居振る舞いの癖については、言葉ではなくて、先代の巫女の所作を通して直接学ぶ必要があります。簡単に言うと、有名な芸能人の芸風を物真似するのに近い感覚です。人間は物真似を見ると「あ、そっくり!」とかなり感動する生き物なので、こういった目に留まりやすい要素が、精神文化として伝承されてきたのでしょう。

神様の生前の気質や立ち居振る舞いの所作を一般の人に対して伝授しようと試みても、あまりうまくいかないことが分かっています。人の仕草を認識して共感する働きを司る神経細胞は、ミラーニューロンと呼ばれています。神道の世界から離れた私のもう一つの専門分野は生命情報学、人の脳が遺伝子の命令によってどのように作られていくかを研究するのがライフワークです。立ち居振る舞いの所作を伝授するときに、脳がどのように働くのか、さまざまな手法を用いて観察することができます。調べてみると、一族の者とそうでない人では、教え手と学び手の同調率に、顕著な差があることが分かってきました。遺伝的に、または気質的に近い人の仕草は模倣しやすいのか、幼少時から修行を積んできた巫女と、そうでない一般の人の差の表れなのか、被験者の数が少なすぎるため今のことろ判然としませんが、身心一体になるレベルに歴然とした差が認められるのです。計測されたデータの上だけでなく、傍から見てもこの違いは顕著です。本物の神様と物真似に失敗した偽者の差、のような印象を受けてしまいます。このこともあって、生前の気質や立ち居振る舞いの所作は秘伝とされて、一般の人の目にはあまり触れないように御簾が下げられたりと、模倣に失敗した偽者の神が出現しないように、さまざまな対策が取られてきたようです。

冒頭の質問、「あなたは神の存在を信じますか」のなかには、じつは「神の霊の存在を信じますか」という意味も含まれています。父は神職を継ぐのを嫌って「ガンダムを作るんだ」と言い放って家出して、海外でロボット工学を学んで帰ってきた機械畑の人。母はヨーロッパ生まれで、キリスト教ユダヤ教と親密な関係にある、本物の西洋魔法(カバラ)に憧れて育った、今でも魔法少女が心の中に住んでいるような大人(心理学者)です。そんな両親から生まれて、社家の古いしきたりに従って育てられた私はというと、神様の霊が人の心から離れて、天上界や霊界などという、見たことも聞いたこともない場所に実在するなんて神話や昔話は、まったく信じていません。神話は故事や伝承をもとにしたフィクションです。神がかりは自己催眠現象です。神降ろしの神事を行なうときに、霊の存在といった、非科学的な神秘主義の発想を持つ必要はまったくない、というのが私の認識です。生前の業績を称えて没後神格化されて奉られている神様は、精神文化として伝承されてきた抽象的なものであり、人の心の中にだけ存在するイメージです。依憑きの巫女は神社に伝わる伝承を基にして、神聖な仮想の人格をイメージし、催眠暗示によってなりきっているだけなのです。

神が宿る依代(よりしろ)となる神聖な子として、まるで生き神様のように、社家の風習に従って育てられました。ほとんど自分の時間が持てない生活を強いられて育ちましたが、私は直接自分の目で見たものしか信じないタイプです。2010年10月8日に書いたブログ『直接意識できないものをイメージ化して思考対象にする技術』のなかで、薔薇の妖精マリーベルのことを紹介しましたが、これら式神と呼ばれる架空の人格のイメージを日常的に使役して、思考の補助に役立てています。しかし、彼等が物理的な現象として見えたことなど一度もありません。たとえば、風になびく稲穂が太陽の光を反射して美しく見えるのに感動して、水田の魂を感じれば、それを擬人化した人の姿が想い浮かんできます。彼と会話することで稲の生育状態を把握して、その年の水田への配水スケジュールの決定に役立てられるように、イメージトレーニングを積んでいます。農家の水争いが起こると大変ですから、いい加減な判断は許されません。各水田の稲の状態をしっかり把握するのに、稲の精霊ともいえる式神とのコミュニケーションが必須なのです。でも、式神はあくまでも、自分がイメージした架空のキャラクターにすぎません。だって、彼等は現実の世界と二重写しになって透けて見えているのですから。こう書くと、「それって幽霊じゃないの?」と思う人もいるでしょう。じつはそうではなくて、私が見ているのは、心理学の世界で直感像と呼ばれているものです。その証拠に、これらのイメージ上のキャラクターは、私の意志で自在に呼び出したり、消したり出来るのですから。じつは、幽霊と呼ばれてきた、半透明で現実世界と二重写しになって見えるイメージ、つまり幻覚も、心理学の世界で直感像と呼ばれている、脳の中で起こる現象と、密接な関係があるのです。

直感像は、幻覚と同じように「外に見える」のですが、「思い浮かべたもの」という主観的な自覚があるところが、心像や表象と同じです。「自分が思い浮かべた」という自覚があるので、自由にイメージを操れます。これに対して、夜見る夢と同じように「無意識のうちに思い浮かべていて、自覚がないもの」は、自分の意思ではコントロールできないので、幽霊などの幻覚と呼び分けられてきたのです。日本の幽霊は、足がないことがお約束ですよね。また、人の顔だけ見える、なんて話す霊能者がたくさんいます。じつは、人の姿全体がイメージされずに、部分だけの再生にとどまることってよくあるので、幽霊の足がなかった、顔だけ空中に浮いていた、人の手だけが地面から生えて見えた、といった奇妙な怪談が生まれてくるのです。幽霊が壁をすり抜けるのは、不思議でもなんでもありません。頭の中に存在するイメージなのだから、現実の世界の物体は移動の障害にならないのです。幽霊が夜現れやすいのは、脳の活動状態と密接な関係があります。幻覚や直感像が見える精神的テンションが高い状態になるのは夜間だからです。「この場所は幽霊が出る心霊スポットだから怖い」と考えれば、それだけ精神的テンションが高くなるので、頭の中に無意識のうちに連想によって描かれたイメージが、現実の世界と二重写しになって見える現象が起こりやすくなります。霊感が強い人は、科学的視点から見れば、暗示に掛かりやすくて、無意識のうちに生み出される直感像を体験しやすい人にほかなりません。

西洋魔法の世界には、カバラと呼ばれる神秘主義の体系があります。これはマジック(手品)の技術ではなくて、古代エジプトなどから引き継がれて西洋に伝わっている精神文化の体系です。その中に霊視能力を高める修行方法があります。どんなものだと思いますか? 魔法少女に憧れた母が持っているW.E.バトラー著「魔法入門」は、日本語にも訳された有名な本なので、内容を確認できると思います。この本の扉絵に「閃く色彩」と呼ばれている、イメージトレーニング用の図形が載っています。W.E.バトラー氏は、小説や映画の世界の登場人物でも手品師(マジシャン)でもなくて、現実に西洋の精神文化としての魔法(カバラ)を伝承した、本物の近代の魔法使いです。魔法の正しい理解と普及のために、通信教育を行なう魔術団体 Servants of the Light(光の侍従)を設立しました。だから「閃く色彩」というキーワードでネット検索すれば、幾つか色彩が鮮やかな六角形を組み合わせた図形を見つけることが出来ると思います。この図形は、補色関係にある残像を発生させて、そのイメージを出来るだけ長く保つ訓練を行なうためのものです。しばらくこの図形を見てから、白い壁などに視線を移すと、壁と残像が二重写しの状態になって、補色の残像が見えると思います。何の役に立つかというと、直感像を維持するイメージトレーニングになっているのです。じつは神道の世界にも、同じような霊視能力を鍛えるとされるトレーニングの方法が、秘伝として伝わっています。西洋の魔法の世界と同様の原理で残像を保持する技法の体系が存在するのです。つまり、洋の東西を問わず、霊視の正体は直感像ということになります。オーラが見えるとされる現象も原理は同じです。自分の頭の中に思い描いたイメージを外界に投影して、二重写しに見る技法にすぎないのです。本格的な修行を積んだ巫女が、自然界のさまざまなものを擬人化したイメージを想い描いて、八百万の神々と心を通わせる技術は、直感像をベースとした思考様式の体系です。仏教には、さまざまな精神的要素を擬人化して表現した、曼荼羅というものがありますが、じつは神道にも、4方位8方位16方位24方位32方位48方位と、各方角に神々を配置することで、自然界のさまざまな要素を配置し分類して考える、曼荼羅とよく似た図形が伝承されています。八百万の神々のままでは、数が多くて戸惑うので、神々のイメージを整理整頓できるようになっているのです。フトマニ モトアケといったキーワードでネット検索すれば、うちの神社に伝承されている図形に似た形のものを見ることが出来ると思います。お正月にその年の出来事を占う神事があり、日本語の48音が配置された図形を頼りに、昔は動物の骨を焼いてその割れかたで占っていたようです。いつしかこの形の的に向かって弓を射る神事へと変化したようですが、これはテーブル・ターニング(こっくりさん)の日本語版のようなものですね。この神事を行なうと48神の姿が現われて、さまざまなことを教えてくれますが、もちろん架空のキャラクターです。抽象的な概念を補助的に用いて一年の間に起こるだろうさまざまな出来事を考える手助けをしてくれるようにシステム化されています。

うちの一族の中にも迷信的な発想をする人達はいて、生前の業績を称えて神社に祭られている神様には霊があって、巫女に憑依するのだから、幽霊が憑く現象と基本的には同じと解釈する人もいます。でも、よく考えてみてください。もしも本当に霊が憑くのであれば、憑かれた巫女が知らない、昔の人の知識や技術を共有することができる筈ですよね。日本全国の巫女が集まれば、日本史の謎の部分を解き明かすことができるかもしれません。本当に出来ることなら、すでに昔から行なわれているはずです。でも、試みられていないということは、つまりはそういうことなのです。6歳の頃だったと思いますが、ある祭祀の席で、私と身心一体になった耀姫が「神の霊がいつもは天上の世界にいるなんて話は迷信です」と言ってしまったので、一族の長老達が真っ青になったことがありました。「神社の神様が自分の存在を迷信と否定した」ようにも受け取れたので、審神者(さにわ)が即座に止めに入ろうとしたのですが、耀姫の機嫌を損ねたらしく、審神者に対して遠当ての技を用いて気絶させてしまうという、前代未聞の事態になりました。このとき耀姫が使ったのは、遠当てのなかでも黄泉送りと呼ばれている秘伝の技です。バロセプターと呼ばれる肺の圧受容体に対して気を送り込んで誤作動させると、ヘーリング・ブロイエル反射と呼ばれる、呼吸や心臓の鼓動を低下させる指令が脳から出される反応が起こります。心肺機能の低下によって脳が虚血状態に陥って失神したり、効果が強く現れると心停止して仮死状態に陥り、蘇生処置を取らなければそのまま死んでしまうこともある、非常に危険な技です。アメリカの有名なスポーツ番組ファイトサイエンスのなかでは、忍者のデスパンチとして紹介されたこともあるので、すでに秘伝ではなくなっています。中国の武術のメッカ少林寺などにも、気功を用いた技の体系が伝承されていたようですが、第二次世界大戦の混乱と文化大革命による破壊の嵐のダブルパンチによって、伝承が絶えてしまったようです。日本の八幡宮(軍神を祭る)系統の幾つかの神社には、今でも秘伝として受け継がれています。修行中の未熟な巫女が、正しい神のイメージを想い描くことに失敗して、変なものに取り憑かれた状態に陥ると、暴走して暴れ巫女の状態になることがあります。脳のリミッターが外れた状態になっていると、火事場パワーを発揮して暴れるので、まともに取り押さえようとしても容易ではありません。そこで、これをスマートに取り押さえて鎮めるための古武術として、御式内の作法などが伝承されています。親戚には古武術の道場を構えている家もあり、そこの師範代など、手乞いや合気道や剣道の有段者が、ずらりと列席していたのですが、耀姫が憑依した6歳の女の子一人を相手に、40人近い男衆が取り押えようとしても、気の押し合いに勝てず、耀姫が神剣を振る所作をしただけで、まるでドミノ倒しのように仰向けにひっくり返って、体に力が入らない状態になりました。似たような現象は、ユーチューブなどにアップされている合気道の実演でも見ることができます。こうなった理由は、私が北欧の血を1/4引いている雑種の子だから、と父が看破しました。純血種より雑種のほうが強かったわけです。

機械畑の技術者の発想をする父は、この有様を見て「いい大人が揃いも揃って子供相手に情けない」と大笑いしながら耀姫を軽々と制して胸に抱き上げて、ただ一人娘に味方して「実験してみましょう」と言い出しました。これも前代未聞のことでしょう。「神を実験する」などという発想はない世界です。真相を明らかにするために、耀姫の命によって神がかりできる20人の巫女が集められて「神の霊は実在するか大実験」をやることになりました。もしも実在するなら、生前の業績を称えられて神社に祭られている人物の、気質や立ち居振る舞いの所作を直接見知っていなくても、霊に憑かれただけで巫女達は再現できる筈です。耀姫(あかるひめ 阿加流比売)神を表向き祭っている神社は、国内に幾つもありません。これは、日本書紀が編纂された当時、朝廷が行なった大規模な宗教改革によって、耀姫を祭っていた神社の多くが、祭神を神功皇后などに強制的に置き換えられていったからのようです。そのため、水面下で祭祀することを余儀なくされて、多くの神社が一般に公開しなくなって久しい女神です。神降ろしされた耀姫を見たことがない巫女も半数近くいたので、実験には最適でした。各々耀姫に神がかりしてもらったのですが、彼女の生前の所作とされるものを伝授されていない巫女達は、霊に憑かれたはずの状態でも、生前の姿をまったく再現できないという、一族の長老達から見れば惨憺たる結果に終わりました。

人から人へと直接伝承される、知識や所作や技術の教育の場から離れて、単独で神の霊は存在しないことが明らかです。神がかりは、伝承を頼りに依憑きの巫女が頭の中にイメージした人格になりきる自己催眠現象であって、人の手で伝承されてきた精神文化を離れて、神の霊が独立して天上や霊界などの別世界に存在しているわけではないということになります。つまり、神話の内容は、故事や伝承をもとに作られたフィクションであり、現実とは違うのです。たとえ神の姿が直感像として見えたとしても、頭の中に想い描かれたイメージにすぎず、霊視しているという解釈も間違っています。神がかり状態の耀姫の額に第三の目が見えるという話をよく聞くことがありますが、それも直感像にすぎません。

こんなこともありました。生前から合気道の神様と呼ばれていた晩年の塩田剛三氏に、私は子供の頃何度かお会いしていて、「長生きしてくださいね」と気を送ってさしあげたこともあります。没後親戚の道場の神棚に合気道の神様として私達の手で祭りました。塩田氏のお弟子さん数人が、親戚の道場を訪れたときに、是非先生に会いたいと懇願されたので、私が塩田氏を神降ろししたのですが、憑依した塩田氏の技を見て懐かしさに涙を流しながら「若い頃の先生にそっくり」と言われました。これは、神がかりの技法に限界があることを意味しています。私はかなりお年を召した塩田氏の技しか知りません。なのに若い頃の動きしかできていないと指摘されてしまったのは、幾つか理由があるでしょう。塩田氏は身長154cm体重46kgと非常に小柄ですが、私は身長175cm体重80kgと少しあります。3サイズはノーコメントですよ。あ、胸は96あるって、ネットゲームのチャットで話しちゃってるので、内緒にしておくのは無理ですね。塩田氏の技は小柄な人向きで、大柄な私ではミラーニューロンを介して完全にコピーしても、生前と同じ動きにはならなかったようです。後日機会を見て、試しに、生前の塩田氏を知らない年下の子達に、道場の祭壇の前で神がかりしてもらったことがあるのですが、神技は再現できませんでした。合気道の神様塩田剛三の霊が天上にあって神降ろしすれば誰でも生前の技を使えるわけではなく、私達の心の中に直接記憶として受け継がれていることは明らかですね。私に憑依した塩田氏から神技を学んだ子達は、脳のリミッターが解除された神がかり状態の高速学習効果によって、短時間でそっくりの動きができるようになりました。特に小柄な妹の動きは「晩年の先生が乗り移ったよう」と、審神者を代行したお弟子さん達から太鼓判を押されました。このケースからも、人から人へと直接伝承される知識や技術を教育する文化から離れて、単独で神の霊が存在しているわけではないことが明らかでしょう。

神がかりは自己催眠現象ですから、なにも神社に祭られている神でなくても、マンガやアニメのキャラといった、人格をイメージできるものなら、何でも依憑きの巫女に憑依させることが可能です。そのとき、神秘的な霊の存在やその働きを考える必要はまったくありません。古典心理学の範囲でも、十分に説明できる心理現象なのです。神は、人の心が神話などの伝承を頼りに作り出している架空のイメージだとしても、心のよりどころとなる精神文化的な存在という本質は何も変わりません。耀姫が起こした宗教改革?は、祭祀の場から迷信を追い払う形になりましたが、科学技術文明に生きる現代人から見れば、「ああやっぱりそういうことか」と納得がいく話の内容だと思います。ここに書いていることは、一般的な神社ではあまり表立って議論されないようです。神道八百万の神々を祭るので、祭祀の仕方はそれぞれの神社でまちまちです。キリスト教のように神様が一人しかいないなら、ローマ法王庁が統一見解を示せば済むことですが、神道の場合はそのような枠に人々の信仰のスタイルをはめ込む構造にはなっていません。各人が好きに信じていればそれでいいのです。「神様の霊は実在するか大実験」の結果が出た後も、神様の霊は天上にいて降りてくるという、古い伝承をそのまま信じている人々もいれば、祭壇の御神体に宿っていると考える巫女も少なからずいます。伝承されてきたものをどう受け止めて理解するかは、本来個々人の自由なので、無理に自分の考えを人に押し付けるような動きはありません。上に書いた耀姫の宗教改革?騒動は、審神者(さにわ)が止める風習があったから起こった混乱にすぎません。しかし、この種の議論が、十分事情を飲み込めていない氏子達の間で話題になって表面化すると、混乱が生じる可能性がないわけではないと思います。多くの人が心のよりどころとし、生きる精神的な支えとしていることを考えれば、混乱を招くのを望まない空気が存在するのは当然だと思います。そこで、私はどこの誰かをこの場で明かさないことにしています。薄々気付いてる方もおられると思いますが、現実の人々と直接繋がるコメントは、控えていただきたいと思います。

以上の解説から、神社の一般の参拝者が祈願するときに思っている神と、私達がイメージしている神の間には、それなりの隔たりがあることが明らかになったと思います。母は当代の耀姫のことを「特殊な無神論者」と理解しています。「あなたは神話の時代から、人々を異なる世界に導く役割を担ってきた日女神(姫神)だから、今の時代では、科学技術文明との間に軋轢を生まない、新しい精神文化を生み出す道標の役割を果たそうとしているのですね」って言われました。私自身は「人の脳内には実証しなくても生まれたときから正しいことが確定している知識(真理)が大量に存在する」ことを示して、産業革命以後の実証主義に基づく科学知識のみに依存する、偏重した社会のありかたを正して、一段階上の自然調和した世界観を持つように人々導くことのほうが重要だと考えています。このことを説明すると「やはりあなたは神ですね。生まれながらに真理を知り、人々を導こうとしているのですから」とからかうように笑ってました。「私の神威は、人の脳の機能を最大限まで高める形でしか働きません」と言うと、「それが精神文化の本質でしょう」と返されました。

一般の参拝者が、神前で祈願して決意をあらたにするときに思いを馳せているのも、心を強くしてくれる精神的な支えとなる存在でしょう。一般の人には見えていない扉の奥には、人の脳のリミッターを解除して、機能を最大限まで高めて、懸案を解決する閃きを得るための伝承技術が存在します。心の中に思い浮かべた神が、当代の耀姫が説くように、心理学や脳科学によって説明できる構成を持つ精神文化の産物か、それとも非科学的な要素を含む霊的な存在かは、それほど重要なことではないんですよね。解釈は人それぞれが自由に行なえるようになっているのです。つまり日本の神道は、西洋人が宗教にとって絶対に必要と思っている、宗派の信条や信仰心すら、求めていないように感じられるわけです。「日本人の無宗教で無信仰の宗教観は、東洋の神秘」と受け取って理解を諦める外国人が多いようですが、現代人から見ても日本の神道の世界は、やはり神秘的な要素を残しているのでしょうか。