生命情報の変化に対する認識不足とホメオパシーを巡る混乱について

                                             最終版(2010-10-17)

何度かホメオパシーを巡るトラブルの話題が浮上しているようなので、以前から気になっていたことを書いておきます。

日本学術会議が、「ホメオパシーには科学的根拠がなく荒唐無稽」と一刀両断したようです。この認識は、一面では正しくても、他の側面から見ると正しくありません。二百年前にドイツの医師ハーネマンが創始したホメオパシーは、当時の医学界から頭ごなしにニセ科学と弾じられたわけではなく、それなりの数の有識者が追随して、有効性を確認しようと努力を重ねていったようです。それは、当時の水準の科学的視点から見ると、ある程度の根拠があると受け取れる要素を持っていたからです。

「もともとは毒なのに病気に効く薬になるって、いったいどういう理屈なんですか?」という疑問に、当時のホメオパシーの考え方が、答えてくれると感じた人々もいた、ということのようです。現代の内科医でも、医薬品に対するこの素朴な疑問を子供達から向けられると、即答できない人がかなりの数います。じつは、毒が体に及ぼす影響を巡って、さまざまな考察が行なわれてきた経緯があり、現代の西洋医学は、意識せずともホメオパシーの知識を吸収して、その流れを汲んでいるのです。だから、下手にニセ科学呼ばわりしていると、人体にとって毒性のある多くの医薬品の使用を否定するような、変な話の展開になりかねません。

ただし、これとは別に、突然日本で大々的に展開されはじめた代替医療ホメオパシーは、ハーネマンが創始した当初のものとは中身がまったく違う、異質なものへと変質しているようです。こちらは、日本学術会議だけでなく、私も愛用の神剣で一刀両断したくなります。明らかに内部矛盾した理屈が並べられているので、真に受けてはいけません。

ハーネマンが創始し、西洋医学に取り込まれて、今も息づいているホメオパシーの考え方について、一般向けに解説してみましょう。自然治癒力が完全に機能している場合は、病気になる前に治ってしまうので、とうぜん症状が現れません。したがって、病気というのは、何らかの原因で自然治癒力が正常に働かなくなっているとか、病気を引き起こしている力に、自然治癒力が負けている状態と考えられます。もしも、体がバランスを失った結果病気になっていることに、病人の体が気付いていない場合は、病気を治そうとする機能が十分に働いていないことがあります。そうなると、症状が改善せずに、徐々に悪化していく経過を辿ります。病気の状態を健康体だと体が誤認している場合は、症状が停滞して慢性化することもあるでしょう。もしもこういったケースで、その症状を揺り動かす作用を持つ物質を摂取したらどうなるでしょうか? 症状が変化することによって、体が病気であることを察知できれば、体を治そうとするメカニズムにスイッチが入って、一斉に動き始めることが期待できます。これが、現代の医療に引き継がれている、本当の意味でのホメオパシーの原理です。もちろん、二百年前にハーネマンが唱えたものは、現代の科学的視点から見ると理屈がおかしい部分もあるので、それなりに修正を施されて形を変えてはいるのですが、先人達の知的財産を引き継いでいることは確かでしょう。

現時点のウィキペディアホメオパシーの記事には、「症状を動かす作用を持つ物質を体に入れる」という重要なポイントが、うまく解説されていません。つまり、ピンボケ状態の認識しか持っていない人が多いように感じられます。「同種の法則」とか、「ホメオパシーでは症状を抑圧するのではなく、症状を出し切れるように後押しします」という文章を載せているサイトがあるようですが、こんな説明では、誰も納得しないでしょう。たしかに、西洋医学は対症療法が中心になっていて、症状を押さえ込むだけで、病気を作り出している本当の原因を取り除く治療を施さないケースがあります。その結果、有病率を増加させて、保険医療制度に大きな負担をかけているようにも見えます。でも、そんな医療批判をする前に、まずホメオパシーはどのような発想で生まれてきたのか、現在の西洋医学の中で、どのような位置にあるのか、正しい理解へと導くことが先決でしょう。某サイトのあやふやな解説は、ホメオパシーの本質を多くの人々に知られたくないので、故意に曖昧にぼかしているようにも見えます。

たとえば、高速道路の緩やかな坂で自然渋滞が起こりそうな場合、運転手に向かって、「ここは、ちょっと上り坂になってるみたい。速度が落ちてきてますよ」と教えてあげれば、アクセルを踏むので状況は緩和されます。情報を与えて自覚を促すことで、問題が解消されるケースというのは、いろいろあるのです。本人が病気だと意識はしていても、体のほうはそのことを十分認識できていない状態など、実際には幾つかのパターンや段階が存在します。ホメオパシーでは、症状を動かす効果を持った化学物質を投与するので、どうしても人々の視線は、物質そのものの効果(薬効)に集まってしまいます。これは、着眼点が完全に間違っています。期待されているのは、「自分が病気だと体が悟る」情報の変化なのです。この部分で焦点がズレているから、ホメオパシーの効果についていくら研究しても、結果が判然としないのです。挙句の果てが、「ホメオパシーには、プラシーボ(擬似薬の暗示)効果しかない」から「ホメオパシーには科学的根拠がない」という事実誤認が生じるわけです。純粋に、病気だと悟らせる生命情報の変化のみを狙った投薬の場合には(注意.実際には、薬効があるものを用いようとするので、このようなケースはまずありえませんね。あくまでも仮の話です)、プラシーボ(暗示)効果による変化と等価の結果しか期待できないことを失念して、ホメオパシーは効果がないと判断するようでは、見識不足から致命的な錯誤を犯していると指摘されても仕方がないでしょう。やがてハーネマン自身も陥っていったさまざまな混乱の元凶は、この一点の認識の間違いにあったようです。

「病気が癖になって慢性化した患者には、症状を揺り動かす刺激を与えればよい。同じ症状を引き起こす物質を探してきて投与すれば、体のほうが病気だと気付いて、慢性化していた病状に変化が生まれる」というのが、本当のホメオパシーの原理です。しかし、この方法は、あまり好ましいものではありませんよね。内臓が悪い人に、症状を自覚させるようと思ったら、ホメオパシーの発想では、内臓に対して毒として働く物質を投与する必要があります。その点、東洋医学の世界では、まったく異なるもっと安全な方法がとられてきました。内臓に対応する手や足のツボを押すといったものです。その刺激で、「あ、痛い。このツボに対応する臓器の具合が悪いみたいだから、治さなくては」という情報(自覚)が体の中に生まれれば、目的を達したことになります。わざわざ体に悪い物質を入れて症状を動かす必要はないのです。ただし、ツボへの刺激、つまり情報の入力だけで、全ての病気が治るはずがないのも、また現実でしょう。生命情報(自覚)の操作は、あくまでも本格的な医療の補助程度に考えておいたほうがいいのです。

ホメオパシーが創始されてから少し経った頃、体に毒を入れるのは問題があるという観点から、毒性を薄めて用いる考え方が生まれたようです。二百年前は、どの程度薄めれば、薬効はあっても副作用が出ないか、見極めるノウハウがなかったらしく、きょくたんに薄めたものを投与して、効果を試そうとする人々も現れました。濃いまま与えるのが良いとする人々と、意見が二つに分かれたことから最初の混乱が生じたようです。あまりにも薄めすぎたものは、まったく症状を動かすことができません。したがって、擬似薬を用いた暗示を与える効果しか現れるはずがない、と考えるのが常識的ですよね。ところが、現在日本で展開されている代替医療ホメオパシーを広める活動では、物質は波動を持っていて、薄めても波動が転写されてその記憶が保持されていくから効果に問題はない、という不自然な珍説を強引に接木して、ホメオパシーの内容を大きく変質させています。もしも、本当に波動が伝わって転写されて効果を発揮するのなら、毒性があるものを無理に体内に摂取する必要はなく、身近に置くだけでも伝播する筈です。実際に、気功などは離れていても伝わるのですから。波なのに、口に入れないと体に伝わらない、なんて理屈を持ち出せば、その時点でアウトでしょう。伝播する性質を持つ波動など、じつは存在していないことを意味するからです。つまり、現在日本で流通している波動ホメオパシーという珍説は、検証うんぬん以前に、内部に論理的矛盾を抱えて破綻していることが明らかなのです。頑固で自説を曲げないことで有名だった創始者ハーネマンが、こんな変質した珍説の出現を知ったら、たぶん怒るでしょう。現在の日本で流通している波動ホメオパシーは、二百年前にドイツの医師ハーネマンが創始した当時の、有効性があるとされたものとは、内容がかけ離れてしまっているようです。

日本学術会議が、「ホメオパシーには科学的根拠がなく荒唐無稽」と一刀両断したのは、現在の状況からみて当然のことだと思います。たとえば、ツボを刺激すると、痛いと感じるから、体の反応が起こります。気功の場合も、気の作用を感じて、効果が現れます。ほとんど何も作用がないのに、症状だけ消えるなんてことはまずありません。もちろん、無意識のうちに自然に治ってしまうことはあるので、本人に自覚がない場合はあるでしょう。それでも、体の反応を細かく調べてみると、必ず刺激の作用があったことが分かるものです。最近日本で出回っているレメディは、薄めすぎているため何の毒性もないと説明され、プラシーボ(擬似薬の暗示)効果しか持っていないことが、研究論文として発表されています。じつは、ホメオパシーの正当性を主張する側の人々の一部も、プラシーボ効果を認めはじめていて、前面に押し出して強調する動きを見せるようになってきました。つまり、ニセ科学と批判する側と、奇しくも見解の一致をみるような、新たな混乱が生じています。これまでの考察から分かることですが、「体の中の情報の変化を求める場合には、濃いものを用いて、その化学的な作用で体が反応する場合も、薄すぎるものを用いて心理的な暗示効果しか働かない場合も、ともにプラシーボ効果と等価の結果しか表面的には期待できない」のです。そのため、免疫系などに指令を出している脳の部位の活動など、体の内部で動いている生命情報の変化を詳細に観察しないことには、両者の違いを判別することはできないでしょう。この重要なポイントがハーネマン自身理解できていなかったようです。そのため、「物質的でなくなる」ところまで限りなく希釈しても効果がある、という誤った認識を持つに至ったようです。そうなった理由はおそらくこうでしょう。もともと、濃くても薄くても結果に差が出ないのですから、毒性を減らしたいと望めば、薄いほど良いことになります。さらに、薄めれば薄めるほど副作用が出ないから、それだけ良い結果が得られたと錯覚する状況も生まれるわけです。ハーネマンの主張の変化に怪しさを感じ取って同調出来なかった人々もいたようです。その結果、あまり希釈しないで用いる「原理派」と極限まで希釈する「低効能派」に分裂してしまったようです。この二つが、まるで内容の異なる現象だということは、上で触れました。このポイントをきちんと押えられずに混乱しているケースが、かなり目立つようです。変質した現代の波動ホメオパシーを信じている人々に向かって、いくら非科学的と指摘しても、説得に応じないケースがあるのは、現にプラシーボ効果程度の改善が現れて、それが体感できているからでしょう。ニセ科学と批判する側も、本質を見誤って錯誤に陥らないように注意しながら、うまく説得しなくてはなりません。

私は生命情報学(バイオ・インフォマティクス)の方面が専門ですが、社家(神社)の娘です。人の体が病気を治そうとする力がうまく働いているかどうか、見ただけである程度分かります。といっても、これは霊能ではありません。人体の気の流れが感覚的に察知できるメカニズムは、脳のどのような部位が使われているか磁気センサーを用いて脳磁図を描き出すことで分かってきたので、ある程度めぼしがついています。はっきり書くと、気は実在するものではなくて、抽象的な概念です。その正体として、エントロピーやネゲントロピーといった物理学畑の概念を持ち出して、数式で表現しようと試みる人もいますが、まだまだ課題が残っています。2010年10月8日に私がブログに書いた、「直接意識できないものをイメージ化して思考対象にする技術」とも深く関わってくるテーマなので、突っ込んだ解説はまたの機会に譲ります。

症状をうまく自覚できないため、体が病気を治そうとしていないと感じる人をみかけたら、伝承されてきた手かざしの技法を用いて刺激を与えてあげることがあります。日本の神道は主に高句麗道教の流れを汲んでいるので、道教の内丹術から派生した民間療法が伝承されているのです。中国の気功は比較的新しい言葉で、内丹術なども指しているため、中国の気功と神道の手かざしなどの気を操る技法は、ルーツを同じくする兄弟の関係にあります。勘違いしてはいけないのは、こういった技術は、あくまでも病気を治そうとする体の反応を引き出すために「情報を与えているだけ」だということです。神社に伝承されているのは、基本的に精神文化ですから、この種の技法は、「病は気から」の生命情報の部分にしか作用しません。暗示も含めて情報としての刺激を与えているのであって、それ自体に人知を超えた病気を治す力が備わっているわけではありません。ツボを押して刺激を与えることで、体の反応を引き出すといった、他の民間療法と基本的には同じなのです。病は気からの部分をダイレクトにコントロールできる、気を操る技法のほうが、単にツボを押す刺激よりも、さまざまな応用がきくケースが多いのですが、今回のテーマから大きく外れるので、紹介はまたの機会に譲ります。この場ではっきりさせておかなくてはならないのは、怪我や病気を治しているのは、あくまでも本人の自然治癒力ということです。だから、情報を与えるのは、応急処置にすぎないことが多いのです。医師の手で行なわれる、病気の原因を取り除く本格的な医療行為とは、比べられないと考えるべきでしょう。気を操る技術について、自然治癒力以上の何か科学的に把握できない要素が存在すると、期待させるような話をする人がいますが、その場合は、現実に起こる出来事ではなく空想や願望を話していると受け取って、注意する必要があります。

日本で最近出回っているレメディを、私に見せびらかしに来た人がいたので、目の前で口の中に入れてもらったことがあります。その人の気の流れの変化を読み取ろうとしましたが、何も起こっていないことが明らかでした。私が意図して疑うような怪訝な顔(雰囲気)を作って心理誘導したため、プラシーボ(擬似薬の暗示)効果すら働いていないようでした。このことを指摘してから、手かざしすると、あっと言ってお腹を押えたので、「ストレスを溜めすぎですね」と指摘したら「そうなんです」と苦笑してました。「気の流れの変化が感じられるでしょう?」「はい。とても温かいです」「本当にそのレメディに効果があるなら、たとえプラシーボ効果が働かないようにしても、今感じているような反応が体に起こるはずです」「・・・ということは、これは偽物ですか!」という結論になりました。一目瞭然とはこのことですね。このように、体の内部の生命情報がどのように変化しているのか、ややこしい検査などしなくても、リアルタイムで察知する方法があるのです。体の状態を検査して把握する科学的な手段がなかった時代に、複雑な漢方薬の処方の体系などを、経験と勘だけで組み立てるのは困難だった筈です。それが出来た背景には、上に示したような、現代人が見落としている、一目瞭然のリアルタイムで体の状態を把握する手段の活用があったと思われます。

現代人は科学的実証主義に頼りすぎているため、人間が感じ取る能力や抽象的な概念の使用を全面否定するような、短絡的な発想を持っています。しかし、「自然治癒力は体が感じ取って働く」ものなので、体内の「化学物質の濃度がそのときいくらあったか」といった定量的な事実は二の次になります。「そのときどう感じ取って、どのような生命情報を保持していたか」という、主観的事実のほうが意味を持つのです。この点は、科学的実証主義と対立する部分でしょう。しかし、生命情報学の視点から見れば、脳や体が今どのような情報を持っていて、どのように意識されているかが、学問の対象です。「自分が病気だと体が悟る、情報の変化」を把握する手法を理解することは、専門家でも容易ではありません。同じ量のものに対しても、人それぞれで感じ方が異なるため、ただ定量的な事実を示してもそれだけでは無意味な場合もあります。生命が持つ情報を扱うときには、抽象的な概念である気の流れを把握したりコントロールする技術から得られる情報のほうが、一つのまとまった意味を持っているため、判断の決め手となることもあるのです。

気が架空の概念と言っても、気の流れの変化に伴って、磁気センサーを用いて得られる脳磁図が変化していることを指摘できるケースでは、ある程度客観的事実とみなされます。情報の担い手として、痛みの信号や、損傷電位や、ホルモン、免疫系をコントロールしている情報など、検出できるものはたくさんあります。手かざしの効果で気の流れが変化するときに自覚される温感や冷感は、サーモグラフィーで簡単に知ることが出来る非常に分かりやすいものなので、錯覚でないことは一目瞭然です。気功や手かざしなどの気を操る技術が、怪しげで効果がない他のものとはっきり区別される理由は、作用を受けた結果体感される変化と、実際に機器を用いて計測されるデータが、しっかり対応を見せているからです。新興宗教の教祖などが、神道に伝わる手かざしを真似してみせることがあるようですが、中身がないまやかしの場合にはサーモグラフィーに何の変化も現れないし、血液を検査しても免疫系をコントロールする脳から分泌されるホルモンに変化が認められないので、気の流れが感覚として把握できない人でも、その真偽を客観的に見極めることができます。ただし、気の流れを人間が読み取った結果と、検査機器がとらえたデータが、完全に突き合わせられる段階までは進んでいません。生物が保持している生命情報は非常に複雑で数が多く、個々のものを追いかけていってそれらを足したら、一つの個体が持っている情報の総体や、意識上の認識が組み立てられるような、単純な構造にはなっていないからです。こういった情報が取捨選択されて組み立てられていく過程では、散逸構造生成による自己組織化が行なわれていると考えられています。これをコンピュータのプログラムでシミュレーションする手法が未完成なのです。脳や思考の自己組織化と同じ現象で、今盛んに研究されて日進月歩の分野の一つです。はっきり言って、こんなややこしいシミュレーションを機械にさせるよりも、抽象的に気の流れの変化として捉えるほうがずっと楽だし、本来人間はそう考えるように脳が作られているフシがあります。抽象的な概念は、もともとそういう知的情報処理を行なうために存在するものですからね。機械が苦手とするこのような分野は人間の脳に判断させて最終的な回答としていいと思うのですが、科学的実証主義に傾倒しきっている現状では、そうもいかないようです。じつは、脳とコンピューターを接続して、人間の思考能力を拡張する研究分野では、一般に知られている実証主義とはまったく違う科学的手法も採られるようになってきています。科学が次世代のものへと進化する動きはすでに私達の手元で始まっています。

というわけで、病気を治そうとして、体の中で順次起こる生命情報の変化を、一般の人が把握することは非常に難しいと思います。「病気だと体が悟る、情報の変化」に対する認識不足が原因で、「ホメオパシープラシーボ効果と結果が同じ」という、肯定派否定派双方が共通して持つに至ったファイナルアンサーの周りで、その受け取り方や解釈を巡って、おかしな混乱が生み出されているように見えます。いろいろ書いてますが、今回最も重要なのは、この文章です。

私と同じように社家に生まれて、子供の頃から、伝承されてきた手かざしを習った人でも、本当に勉強熱心なら、大学に進学するときには、心身医学や内科や病理学などを選択しています。従姉妹にもそういう人達がいます。患者に接するときに、手かざしや気功のテクニックを使っていますが、ほとんどの患者はただの触診だと思って気付いてません。「あの先生達に診てもらうと、耀姫様から気を頂いたときと同じように温かくなる」「温かい癒しの手をなさっておられる」といった反応を示す神社の氏子の方々が多いのです。なにもミスターマリックのハンドパワーのショーのような目立つことをしなくても、患者の気の流れを整えて自然治癒力を導き出すことは可能なんですよね。神社と違って病院内で、あからさまなことをすると、宗教臭さを嫌う患者さんは不信感を抱いてしまうので、逆効果でしょう。悟られることなくスマートに処置するのが重要と、従姉妹達は心得ているようです。場合によっては、「これから暗示をかけます」、と説明したうえで、「お腹が温かい」といったキーワードを用いて暗示を与えるシュルツの自律訓練法と、手かざしの技法をこっそり組み合わせて、効果を狙うこともあるようです。その場合も、伝承されてきた古臭い手かざしの世界の用語を説明のなかに含ませることはないようです。心身医学の見地からの説明で必要十分だからです。彼女達の診断は西洋医学の知識に基づいているし、治療も国民健康保険が適用されるものが中心です。病状を改善するために必要な刺激を、適材適所さまざまな手法を用いて与えるのは、あくまでも補助で、病気の原因を解消する本格的な医療行為とは考えられていません。神社に千数百年伝わってきた、伝統に裏付けられた民間療法ですら、医療現場ではこのように脇役扱いなのですから、歴史が浅いうえに、原理を勘違いした形で、不自然な接木を施されて広まっている変質したホメオパシーが、本格的な医療と肩を並べることはありえませんね。

二百年前にドイツで生まれた時点では、ホメオパシーが治療に役立つケースもあったと思われます。「病状を揺り動かす物質を投与して、病気だと本人の体に悟らせれば、自然治癒力を引き出せる」という理屈は、毒性がある医薬品を投与する根拠の一つと考えられていたようです。現在使われている医薬品のなかには、量を間違えると毒になるものがたくさんあります。毒物を体に入れて刺激することで、症状を望む方向に動かす考え方は、修正を施されて現代の医学のなかに今も息づいているようです。でも、有効性の検証を経て、副作用が出ない安全な量を見極めることで、医薬品として認可を受けて、医師の手で処方されています。製薬会社は多くの化学物質が持つ作用を長年研究してきました。二百年前にホメオパシーの研究過程で注目された効果が顕著なものは、すでに検証を終えて、有用な部分は西洋医学に取り込まれて久しいと考えるのが妥当でしょう。ところがです。「現代医学とホメオパシー医学のそれぞれの専門性を生かし協力し合うことが大切」なんて、もっともらしい錯覚に誘導するような文章を載せているサイトがあるようです。漢方薬ならば、西洋医学と異なる歴史を辿り、病気に対する考え方も大きく異なるので、現在でも明確に線引きされて、西洋医学の薬とは分けて処方されます。しかし、ホメオパシーは違いますよね。西洋医学の中で生まれて、二百年の歳月を経ることで、有効なものとそうでないものを選別する作業が、すでに終わっていると考えてよい状況です。西洋医学の中に吸収されて久しい知識なのに、今さら両者が協力する必要があるなんて書くのは不自然すぎます。

その点、神社に伝わる、患者の気の流れを操作する手かざしの技法などは、まだまだ西洋医学とは異なる体系を保っています。従姉妹達は、心身医学の見地から神社に伝承されてきた技法を解釈して、何の矛盾も生じないように医療現場に溶け込ませていますが、それは臨機応変に器用にやっているからです。もしも不器用な医師が、ミスターマリックのハンドパワーのような派手なパフォーマンスを胃腸炎の患者相手に医療現場でやったら、ジョークか心霊治療と誤解されて、患者に逃げられても仕方がないと思います。違和感ありまくりでしょうからね。じつは、従姉妹達が働いている大学病院の研修医のなかに、そうとは知らずに、無意識のうちに手かざしのテクニックを習得してしまった器用な人がいます。お腹が痛いといって受付のところで泣いている女の子に向かって、「こうすると温かいよね」とお腹を触診しながら痛みを取り除いて、泣き止ませているのが目に留まりました。私が従姉妹に「あの研修医も神道関係者?」と尋ねたら、「いいえ、見よう見真似で覚えちゃったみたい。あなたが彼に、脳のリミッターを解除して効果を高めるコツを特訓してあげれば、意外と伸びるかも?」「本当のことを教えたら、カルチャーショックを起こさないかしら?」なんて笑い話になったこともあります。研修医本人は手かざしとは露知らず、心身医学で説明できる暗示を効果的に与えるテクニックだと思いこんで、何の違和感も覚えずに活用していたのです。

彼がお正月に神社を訪れた機会をとらえて、従姉妹達は私が座っている祭壇のところに連れてきました。大学病院のなかで顔を合わせるときと違って、太陽神を示す天冠をかぶり、神服をまとって男装し、太陽神(男神)の力の象徴とされる日矛鏡(分霊品)を胸から下げた姿で、御簾を隔てて座っていたので、初めは誰だか分からなかったようです。言霊が響く話し方をするし、言葉を取り次ぐ役目の人を介して、間接的に会話する形をとるシキタリがあるので、分からなくても当然でしょう。御簾を上げてから、仰々しい派手な所作で、手かざしを用いて彼の太陽神経叢を刺激してあげました。それによって初めて、本人が使っているテクニックが、神社に伝承されているものと同じで、しかもレベルが低かったことを悟ったらしく、唖然としていました。魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道の正体について研究した歴史学者も指摘していることですが、日本の神道高句麗道教の流れを汲んでいるため、道教の内丹術(体内の気を練る術)から発展した独自の体系を伝承しています。彼が気付かずに用いてきた手かざし系の幾つかのテクニックもその一部だと知って、カルチャーショックを受けたようでした。さらに、目の前にいる神がかりして耀姫と一体化した女性が、内丹術の技法をすらすらと心身医学の用語を用いて解説することに驚くと同時に、病院で何度か会話したことがある人物だと気付いて、またびっくりしたようです。真相を全て理解した彼の口から出た言葉は、「生命情報を制御する技術の体系が伝承されてきたことは理解できましたが、今のままでは世の中に受け入れられず消えてしまう可能性があると思います。西洋医学に移植してはどうですか?」でした。それに対して「漢方と同じで、根本的な発想が西洋医学とは異なるので、それは不可能です」と耀姫は答えました。

この人物がたいしたものだと思ったのは、普通の人は神社に祭られている神と対面して神威を感じたら、畏怖して平伏するのに、彼は胡坐を正座に変えて身を正して畏まって足元が震えながらも、背筋を伸ばしてしっかりと自分の意見を耀姫に向かって示したことです。神からの託宣を頂く神聖な場所ですから、普通の人は気後れしてしまい、とても神に向かって意見などしないものです。言葉を取り次ぐ役目の者は首を横に振って、畏れ多くも神に向かって意見する言葉など取り次ぎたくない、無礼者として退けたいというそぶりを示したのですが、私が神剣の柄を鳴らして注意を引き、目配せでそれを制して奏上させて、強引に会話を成り立たせたのです。そのうえ彼は、耀姫から「それは神である私にも不可能なこと」という意味の言葉を引き出したわけですから、その場にいた氏子のなかには、驚愕して狼狽を隠せなかった人もいました。はっきり書きますが、神頼みされても、神社の神様にだって出来ないことはたくさんあります。私はそういう点を信者の前で誤魔化したりしません。神様は万能の存在だなんて幻想を育てても、空虚な迷信に陥るだけで、得るものはないですからね。

どうして神社の祭壇に祭られている本物の神である私にも出来ない相談かというと、気を練る技術の効果を高める奥義として、脳のリミッターの解除に関する技法がなど、幾つか重要な鍵となるポイントがあるのですが、現在の心身医学の暗示の効果に関する知識の中には、脳のリミッターの解除一つとってみても、ごっそり欠け落ちていて存在しないのです。したがって、今のままでは未実証・未検証・未科学の要素として扱われてしまいます。従姉妹が病院で私に向かって「あなたが彼に、脳のリミッターを解除して効果を高めるコツを特訓してあげれば?」と提案したのは、西洋医学の世界ではまだ認知されていない事柄なので、大学病院では研修医に向かって教えることが出来ないと判断しているからです。もちろん、神社では民間療法として伝承されてきた技術として、これを伝授することに問題はありません。このように、医療現場では、西洋医学と東洋に伝わる神秘の技術の間に明確な線引きがされていて、両者を混同しないように注意が払われているのです。こういった判断が働かない人物は、迷信的な治療方法とそうでないものを区別することも出来ない、認識が曖昧な状態にあるわけですから、信頼できる医師や研究者とは言えないと思います。神道の世界で伝承してきた民間療法の体系を、下準備が整っていない今の段階で移植するのは無理があります。もちろん、火事場パワーをはじめとして、脳のリミッターが解除される現象の存在は広く知られ、メカニズムも解明されてきていているので、オカルトと混同する人はまずいなくなりました。しかし、脳リミッターの解除によって、気功や手かざしの効果がアップする現象については、専門家の間でも知る人が少なくて、「そんな現象は聞いたことがない」と、否定的な見解を示す研究者が大部分という状況です。研究者達が不勉強と言ってしまえばそれまでですが、学問の進歩には段階があるので無理強いすることは出来ません。脳の研究の進展と足並みを揃えながら身心医学が発達していくのを待つ必要がある領域なのです。

ほかには、ツボは東洋医学の世界で伝えられてきたものですから、明確に線引きされていますよね。たとえば、歯科医のなかには、局所麻酔が効いたかどうか確認するために、親指と人差し指の間に存在する、一本一本の歯の神経と対応したツボを、先が尖ったもので刺激して、患者の反応をみてから治療を始める人もいます。これなどは、西洋医学に東洋の技法がうまく取り込まれて融和している一例でしょう。

したがって、気功や手かざしやツボ刺激といった東洋で伝承されてきた技法を、今後西洋医学とどのように併用していくかという議論には意味があります。しかし、誕生してから二百年経過しているホメオパシーが、いまだに現代の医学と融和できていないなんて話が出てくるのは、あまりにもおかしい不自然なことだと思います。もしも、ホメオパシーのなかに、まだ西洋医学が吸収できていない、なにか有用なものが残っていると感じる人がいるなら、論文を発表して学会に認めてもらえば済むことです。ところが現実には、波動ホメオパシーに対して否定的な論文ばかり目立つのですから、芽がないことは明らかです。現代の日本で流通している変質したホメオパシーは、カビが生えた二百年前の古いままの知識の上に、根拠が定かでない似非科学にしか見えない波動理論を強引に接木して、不自然な結論を導き出そうと必死になっているように見えます。日本学術会議が「荒唐無稽」と言い切ったのは当然でしょうね。これによって、ほとんどの人は用心して、距離を置くようになったと思います。

ホメオパシーという考えかたの乱用から起こった混乱は、今後終息していくと思いますが、再びこのような騒ぎが、別の形で起こらないとは限りません。ツボを刺激したり、気の流れを変化させたり、催眠暗示を与えるといったさまざまな手法で、自然治癒力を導き出す「生命情報を操る」技術は、ある程度有効な要素を持っているため、昔から民間療法として存在してきました。一般に「病は気から」と言われている領域は、心身医学として扱われるようになりましたが、まだまだ気功の正体など、十分解明されているとは言えない不透明な要素を抱えています。実際には、情報ネゲントロピーの注入といった熱力学から生まれた言葉と生命情報学(バイオインフォマティクス)の考え方で説明できる部分もあります。かなり分かってきてはいるのですが、まだ説明に必要なものが全て出揃っておらず、表に出す時期ではないようです。そういった隙間につけこまれる形で、怪しげな理屈を強引に接木されて、不自然な形で流行する可能性が残されています。医療現場とかけ離れた霊感商法などに悪用される可能性があります。そのような混乱に巻き込まれる被害者が出ないように、予め警鐘を鳴らしておく必要がありそうです。

神社に祭られている神々の実用性。

神道を良く知る方々も、なんだこれ? と思うようなタイトルだと思います。現代の神道は、伝統的な祭祀の所作(型)を重んじる傾向があります。・・・なんて私の視点から書いても、一般の人には分かりづらいだろうから、もっと具体的に書いたほうがいいですね。「伝統的なお祭りを、文化遺産として引き継いでいくことが村興しにつながる」といった考え方で世の中は動いているようです。だから、『神様の実用性』なんて発想自体、突飛で不自然なものに見えてしまうようです。科学的実証主義に基づく教育を受けた人々は、「実用性と言うからには、神の奇跡とやらを目の前で起こして見せろ」と挑んでくることもあります。

中学生の頃、新聞部の男子の一人が、まさに真っ向から挑んできたことがありました。子供の頃から「神がかりさん」と同級生達に呼ばれていた私に向かって「神がかりの奇跡を目の前で起こして見せろ」と、取材を申し込んできたのです。そもそもの発端は、ある男子が体育の授業中に悪ふざけをしていて、折れた自転車のスポークを足に刺さして深い傷を負ったときに、保健医が応急処置をしたあとで、痛みが強いようなら私のところに行くように、と指示したことに始まります。手かざしで痛みを取り除いてあげたところ、びっくりしたように私をジロジロ見ていたのですが、後になって、通常よりも早く治ったと信じ込んだらしく、私を霊能者呼ばわりしはじめたのです。それを聞きつけた新聞部の男子が、ネタに使えると思ったらしく「そんな迷信を誰が信じるか」と、私に矛先を向けてきたわけです。生徒会長や兄達が、この思い切った神をも畏れぬ?無謀な企画に大笑いして、「耀姫が現存する神だと科学的に証明する」ために、私立の学園の大学の教授陣を空手部の部室に招いて、瓦やバーベルを用意して段取りを整えました。

まず、何もしていない通常の状態で、挑戦してきた新聞部員を含む、5人の男子の体力測定が行なわれました。次に、神剣と神楽鈴を手にした私が巫女舞をして、耀姫を神降ろししてから、男子達に気を吹き込む所作をしました。ここに明記しておきますが、神がかりの神事の正体は、自己催眠現象です。耀姫の霊の正体は、神社に伝わる伝承をもとに、巫女が頭の中にイメージした架空の人格にすぎません。でも、ただの空想にすぎないかというと、そうではありません。そのことは「神がかりの奇跡を目の前で起こして見せろ」と挑んできた男子達が証明してくれる結果になりました。兄達が演奏する神楽と、私の巫女舞によって、祭祀の雰囲気にすっかり呑まれてしまった男の子達は、言霊を響かせて耀姫が発する命令に操られる、催眠状態になっていました。本人達の意思とは関係なく体が言われるままに自然に動いて、直前に行なわれた体力測定の結果の倍近い力を発揮して、重いバーベルを持ち上げていきました。瓦割りをしたあとで、耀姫は彼等にかけた術を解いて、「さあ、もう一度割ってみなさい」と言いました。5人とも、「痛くてとても瓦なんか割れない」と口々に言いました。実験に立ち会った教授陣が、「催眠暗示に掛かっているときは、痛みを感じなくなり、火事場パワーが発揮できても、暗示を解いたら効果がなくなった」のだと、中学生にも分かるように解説してくれました。翌日、5人ともひどい筋肉痛に襲われて「耀姫様、痛みを消してください」と私のところに来たので、従姉妹達が「信者が増えたわねー」と、冷やかしました。

これって、オカルト現象とは誰も思いませんよね。実験に立ち会った教授陣も、それぞれの専門的な視点から、催眠現象だと口々に指摘して、異論は出なかったのですから。じつは、学園の運営に、親戚がかなり関わっているので、私に向かって何か異論を唱えたら、理事会から睨まれて立場が悪くなる可能性がありました。それでも学者としてのプライドがあると思うし、子供だと思って信念に反することを口にしていると、数年後には自分達の講義を受講するようになるわけですから、その場限りの下手なことは言えないでしょう。

筋肉というものは、大きな力を出すと微細な損傷を負うように出来ています。そこで、平常時はリミッターが働いて、出力がセーブされています。でも、危機を感じたり、神通力を発揮できるようになったという暗示に掛かると、リミッターが外れて、通常出さない大きな力を振り絞ります。もちろん通常以上に損傷するので、次の日ひどい使い痛みに襲われることになります。耀姫が幾つかの神社に祭られている本物の神だといっても、男の子達の体にもともと備わっていないような、大きな力を引き出すことは出来ませんでした。もしそれが可能だったら、実験を見ていた誰もが、超常現象と判断したでしょう。現実には、科学的に説明できる範囲の出来事しか起こりませんでした。そこで新聞部の男子は、「神の奇跡は科学的に説明できる催眠現象だった」と、校内新聞に突撃取材の内容を書きました。「耀姫が現存する神だと科学的に証明する」兄達の目論見は成功したのです。

スポークが足を貫通した痛みを、手かざしで取り除いてあげて以来、耀姫の信者になったオカルトマニアの男の子は、この記事に納得できなかったようです。「僕の足は耀姫様の霊力で治った」と、実験に立ち会った、大学病院の教授達のところまで、怪我の痕を見せに行ったそうです。ところが、「耀姫様の手当てで、治りが早くなったのは、生体電位が調整された可能性が・・・」と、科学的視点から説明されて終わりました。どういうことかというと、切り傷などを負うと、損傷した部位だけ電位が変わります。その損傷電位を目印に、傷口の壊れた細胞を取り除こうと免疫細胞が集まっていって、傷口を清掃するところから傷の修復は始まります。損傷電位の発生は、体の無意識の反応なので、本人の意思で調整することが出来ません。手かざしの技法を習得している耀姫の出番だと校医は判断して、私のところに行くように指示したのです。生体電位の変化は計測可能なので、専門家の間ではある程度知られていることですが、西洋医学の世界では、まだ適切に調整する技術が確立されているとは言えない状態です。そこで、伝統に裏付けられた民間療法のほうが信頼が置ける、という判断が働いたわけです。普通の怪我なら、私のところによこしたりしませんから、太った子だったので成人病のような問題が表れて、傷の治りが遅れる可能性を懸念したのだろうと思います。耀姫は、怪我をした本人の体がもともと持っている、傷を治す力がうまく現れるために必要な命令の信号を最適化しただけです。人体が備えた自然治癒力以上の奇跡が起こったわけではありません。信心深い人から見れば、ハンドパワーの霊能力のように感じられるかもしれませんが、物理的に起こらない現象を起こす力など、どこにも存在しません。オカルトマニアの男の子は、耀姫の心霊治療の効果を宣伝して回りたかったのでしょうが、神社におしかけても、耀姫自身が大学病院の教授達とまったく同じ解説をしたので(だって私の家庭教師なんだもん)、敢えなく撃沈しました。

神社の娘というだけで、オカルトが好きな人が興味本位で接触してくることがよくあるのですが、私は迷信が嫌いです。自分が出来ないことは信じません。見たこともない心霊現象も、一切信じないタイプです。ミスターマリックのハンドパワーのような手品のショーは、人の思い込みや錯覚を利用して事実誤認へと誘導するものなので、好きではありません。もちろん、霊能力者と称して、実際にはマジシャンにすぎない、集金目的の新興宗教の似非教祖達にも興味がありません。人骨を焼いた粉を私のところに持って来て、「何も持っていない指の間からこれを出して見せた凄い聖人がいる」と熱心に説明する人がいました。同じ手品を実演してあげたら、びっくりしていました。種明かししたら、床に頭を着けて、穴があったら入りたい気持ちになったようでした。神様に出来ることと出来ないことが、はっきり分かっているので、宗教トリックで私達を騙すことはまず不可能でしょう。ハイパーソニックサウンドを用いて、特定の人にだけ神の声とやらが聞こえるようにしたり、経頭蓋磁気刺激装置を用いて、幻覚を発生させたり、ホログラフィーを用いて神の幻影を見せるといった、手の込んだハイテクを用いる似非教祖もいるようです。私の父は、神主になるのを嫌って家出して、海外で機械工学を学んで帰ったような人です。子供の頃から義手や義足の製作を手伝ってきましたから、ある程度機械のことが分かります。たいていの機械仕掛けのトリックは見破れます。また、巫女みこナース電波ソングが好きな人達とも、残念ながらまったく話が噛み合いません。たぶん、育った環境が違うせいでしょう。

話を戻して、ここまで読み進んでも、「神社に祭られている神は、神話の中の架空の存在だから、文化的価値はあっても実用性はない。非科学的で現実には役に立たない」と考える人は、まずいないと思います。たしかに、神社の神様は精神文化の産物で、人々の心の中にしか存在しない架空のものですが、耀姫が神通力と見間違える火事場パワーを発揮させる暗示効果は、現実のものです。阪神・淡路大震災のとき、私はまだ小学生でしたが、人の力ではとても助けられないと、悲嘆に暮れている人達に向かって、「あなた達は火事場パワーを持っているでしょう。自分達の中に眠っている本当の力を信じなさい。ここに○○さんが埋まってますよ」と叱咤して、救出を促して回りました。瓦礫の下に埋まっていて医師の手が届かない人に対しては、私達が気を送って応急措置をしてあげました。こういった救援活動は、神社に伝承されてきた技術で実際に可能なのです。

多くの神道関係者が否定的な反応をすることを承知の上で書きますが、神社に伝わる最も価値ある実用的な伝承は、祖先の手によって創作された神話を再現する祝詞や祭祀の所作ではないと思います。もっと実用的な技術が数多く伝承されているのですから。それらを汲み取って受け継ぐことなく、説明がつかない非科学的な言い伝えにすぎないと考えたり、オカルトの世界の空想の産物と誤認して、伝承を拒絶する空気が生まれているようです。昨日は式神の有用性についてブログに書きましたが、ほとんどの神道関係者は、式神は言い伝えにすぎず、実際に使えるわけがないと、頭から否定的な反応しか示せないと思います。なぜなら、ほとんどの人が、最も重要な鍵となる、深層心理と化身をリンクさせる技法を失伝しているからです。

神道の文化を、実用的な技術として伝承している私達と、伝承出来ていない人々では、何が決定的に違うのでしょうか? 認識が異なるだけではありません。最も大きな違いは、深層心理を動かす自己催眠の暗示効果が本当に発現するかどうかです。残念なことですが、所作(型)だけで中身が伴わない祭祀を伝承しているケースがほとんどです。そうなってしまった原因は、幕末の頃に国学者達の手によって広まった、間違った認識にあります。簡単に言えば、神社に祭られている神々は、どうせ架空の存在なのだから、そんなものを巫女に降ろしてもまったく意味がない、という認識です。その後明治維新を迎えて、神道関係者は国家公務員の扱いになり、国家神道へと再編されて軍国主義の道具として使われる運命を辿ります。その近代化の過程で、明治政府から通称巫女禁断令と呼ばれるものが出されて、神がかりの神事を完全否定するような、誤った認識が神道界に急速に広まってしまったのです。

神社に行くと、鈴を鳴らして頼みごとをしてからおみくじを引きますが、これは本来は、神がかりした巫女の口から、神様のお告げを頂く儀式を、略式化したものです。本来ならば巫女舞をして神降ろしを行なう必要があるのですが、国家神道へと再編していく乱暴な宗教改革によって、最も基本的で重要な部分を失ってしまった結果、今では本当に神がかり出来る技術を伝承している巫女が、ほとんどいなくなっているのです。「言い伝えによると、昔はうちの神社でも、巫女が神がかりすると託宣が降りることがあったようですが、今では形だけのものになっています」といったことを語る神職が非常に多いのが現状です。宗教は精神文化です。伝承してきた最も重要なものは、心に作用する技術です。鍵となる、催眠暗示の技法が失われてしまったら、実質的な力を失います。今日の神社の多くは、代々受け継いできた精神文化的な資産をほとんど失伝した、危機的状況にあるのですが、ほとんどの人がことの重大さに気付いていません。各地に伝わる伝統的なお祭りを、文化遺産として形だけ引き継いでいくだけでは不十分です。

神様は架空の存在だから、実用性などない、という認識が広まって定着したのは、時代の流れでしょう。「逆らってもどうなるものでもない。祖先から伝えられてきたものを、私達がしっかり受け継いで後世に伝えていけばそれで良い」というのがお爺様達の考えです。でも、もう一つの選択肢もあります。今巷はヒーリングブームですよね。ストレス社会のなかで、心の癒しを求めている人々が大勢います。癒したいけど、自分の深層心理は目に見えず触ることが出来ないから、メンテナンスすることが不可能だと思い込んでいます。でも、昨日も書いたように、深層心理を擬人化した化身を用いれば、今まで知ることも触ることもできなかった、心の深い領域とコミュニケーションを取って、メンテナンスしていくことが可能になります。火事場パワーを発揮したり、生体電位を調整して自然治癒力を引き出すことだって、出来るようになるでしょう。昨日、妖精の姿をしたバラの花の女神マリーベルを活用している例を紹介しました。そこから分かるように、なにも古臭い神道系の八百万の神々をイメージする必要はありません。もっと現代的な、マンガやアニメのキャラを深層心理とリンクさせても、同じような心理的効果が得られます。古臭いカビが生えたイメージは捨ててしまっても問題ないのです。つまり、従来の宗教という概念から脱皮して、21世紀にふさわしい、ユングの心理学をベースとした、心のメンテナンスを行なう精神文化を創ることも可能だと思います。

え? 私に創れって? うーん、だってほらいろいろと忙しいでしょ。それに私は赤ちゃんのときから、神様が宿る特別な子として育てられています。だから、すっかり宗教臭さが身に付いてしまっていて、人前に出るのはちょっと・・・。神道は畏れの文化を持っていて、その真ん中で育てられた私は、本能的に人や動物を怖がらせてしまう雰囲気を備えているのです。だから、ヒーリング系の活動は不向きです。というわけで、誰かやる気がある人はいないかなーと思っています。もちろん、新興宗教で一儲けしようなんて考えてる人は駄目。どちらかというと、カウンセラーやセラピストや心理学者のグループのほうが適任でしょうね。

え? すでにメタバースのオープンシムで研究グループが活動してるだろうって?w たしかにやってますが、専門的になりすぎてしまって、一般の人が勉強する目的で参加できる余地はありません。私も理事をやっている私立の学園に、この方面の授業をするクラスを設けてもよさそうなのですが、父兄はもちろん、文部科学省の頭が固いお役人達がどういう反応をするか疑問ですよね。私が書いた学術論文を「題名以外読めないので、読める言葉で書いてください」と言って突き返した人もいるほどです。発展させすぎたために、学問を進める方法や学術用語が、完全に隔絶しちゃって互換性がないのです。つまり翻訳不能の世界です。それでも、オープンシム用のプログラムは、普通のプログラマーさん達に作ってもらってて、意図が分からないと言われたことは一度もないんですよね。どうすれば壁が取り払えるのか、正直私には分かりません。

追記。(2010-10-14)

「深層心理と連動する、実用性を備えたキャラクターをマンガに描きたい」というメールを頂きました。現代のマンガ文化は非常に発達しているので、名作と言われるような作品は、すでに漫画家の深層心理とリンクしています。だから、キャラクターが勝手に(自分の意思で)動いて、ストーリーが紡がれていく、と語る漫画家さんもいます。夜夢を見るときのことを考えてみれば分かりますが、夢の中に登場する人物は、夢を見ている本人があれこれ考えなくても、独立した人格と自分の意思を持って勝手に行動してますよね。それと同じことが、マンガのネームを考えているときにも起こるのです。「どうやったらそんな心理状態になれるんですか」と神社まで訪ねて来た勉強熱心な方がおられますが、耀姫は「自分は夢が描けると信じなさい」と告げました。この託宣を聴いた日から、キャラが勝手に動くようになって、ネームに困らなくなったそうです。つまり、要は思い込みなのです。もちろん、イメージトレーニングの方法もいろいろあるので、また機会があれば紹介してみようと思っています。

直接意識できないものをイメージ化して思考対象にする技術(風力発電

環境庁が行なう、風力発電施設が出している低周波騒音の実態調査のニュースを読みました。意識できない音の影響は、直接感じ取れず、思考対象に出来ないから、対策が遅れているんですよね。良い機会だと感じたので、多くの現代人の常識をひっくり返す、ちょっとした面白い技術を紹介してみようと思い立ちました。使いこなせるようになれば、脳で処理できる情報の量・次元ともに桁違いになる、というシロモノです。私は人間の脳が遺伝子の命令でどのように作られていくのか、自己組織化の過程を研究するのがライフワークですから、それなりの価値ある情報を発信できると確信しています。でもご心配なく。出来る限り専門用語を使わずに、一般の人向けに書くつもりです。

風力発電施設(巨大な風車)から、人の耳に聞こえない低周波音(20ヘルツ以下の振動)が出て、不眠などの体調不良の原因になっている可能性があるので、環境省が実態調査を行なう、という報道がありました。畑に小さな風車を立てると、振動音が地中に響くので、モグラが嫌って逃げていくらしく、ホームセンターで売られています。同じように、巨大な風車が出す低周波騒音は、人間に直接聞こえないものでも、影響が出てしまうようです。コンサート会場に行くと、大きなスピーカーや太鼓から出てくる低音は、お腹に響くものとして感じられます。20ヘルツ以下の音は、耳では聞こえないとされていますが、体が無意識のうちに感じ取って、影響を受けているようです。不眠などの体調不良が起こって、クレームが殺到すれば、やっぱり公害ってことになりますよね。

体は影響を受けているけど意識できない刺激って、じつはたくさんあります。人間の意識は、海面から出ている氷山の一角、と喩えた研究者もいるようです。氷山はその大部分が海面下に隠れているように、人間の場合も、意識できない無意識の領域のほうがはるかに大きいって意味なんですね。意識するには、頭の中に感覚要素のイメージが生まれる必要があります。たとえば音のイメージは、音量・音程・音色といった感覚要素で構成されています。2万ヘルツ以上の超音波は人の耳に聞こえないとされていますが、実際には脳が刺激を受けて反応していることが分かっています。2万ヘルツ以上が録音されていないCDの音楽を聴くよりも、2万ヘルツを超える音まで録音されているアナログレコードの音楽を聴くほうが、感動すると考えている、オーディオマニアの人が多いのは、2万ヘルツ以上の、イメージとして意識できない高さの音にも、脳が反応しているからなのです。そういった聞こえない音が、人の心や体によい影響を与えてくれるなら何も問題はないのですが、実際には、人が不快に感じたり、体調不良を起こすような、超音波や低周波音が存在するようです。

人間の脳がイメージ化出来ない、意識できない振動でも、無意識のうちに脳は情報処理していることは、上の観察からも明らかです。では、無意識レベルで行なわれている脳内の情報処理を、なんとか意識出来るようにする、良い方法はないでしょうか? もしそれが可能なら、風力発電施設の公害問題は、もっと容易に扱えるようになるはずです。じつは人間は、直接イメージ化できない刺激(情報)でも、間接的にイメージ化する手段を、生まれながらに持っています。何だと思いますか? どうして一般的な現代人は、間接的にイメージ化する手段に、考えが及ばないのでしょう? じつは、擬人化と呼ばれる情報処理の手法がその手段なのです。

一般的な現代人は、擬人化は喩えの一種と認識しています。草木や花には人のような心はありません。でも、もしも心があったなら、というアニミズム的な発想を用いて、草木の妖精や花の女神をイメージして、擬人化して表現することが、ファンタジーの世界では、一般的な表現手法になっています。ここからが重要な、常識がひっくり返るポイントなので、先入観を持たずに、注意深く考察を進めてください。現実世界のあなたの目の前に、花壇があるとします。そこに咲いている花々を擬人化した、花の女神達と会話すれば、花の心を知ることが出来るのではないでしょうか? え? そんな想像はフィクションだから、考えても無意味? 現実と空想を混同した間違った考え方になっている?

答えから先に書くと、じつは、私達は気付かないうちに、物事を擬人化して考える習慣が身についています。意識して擬人化していないので、疑問を感じないだけです。擬人化は、日常的に普通に用いられている思考パターンで、高度な知的情報処理の一手法なのです。このように解説しても、ほとんどの人は腑に落ちないと思います。物事を擬人化して考えるのは、ファンタジーの発想で、空想と現実は違う、というのが、現代人の思考様式上の不動のお約束ですからね。では、180度視点を変えた、意地悪な質問を試みます。あなたは、無意識レベルで、物事を擬人化した発想をしていませんか? じつは、この質問に答えられる現代人はほとんどいません。盲点になっているからです。

無意識のうちに行なわれている脳内の知的情報処理の厄介なところは、意識的な思考対象にならない、という点です。簡単に言えば、自分で考えているのに、考えているという自覚がないのです。つまり、意識して考えられない問題なので、お手上げってことですね。ところが、心理学の世界では百年前から、人間は無意識レベルで、擬人化して物事を考える習性を持っていることが判明しています。かなりの研究が行なわれてきた歴史があります。それは、精神分析とか、夢解きと呼ばれている分野です。夢の中には、その人の深層心理が擬人化されて、人の姿をとって出現することがよくあります。たとえば、男性が女性を愛する心理は、少女の姿を取ることが知られていて、心理学者のユングは、彼女をアニマと名付けています。深層心理は、色も形もないものですから、直接意識上にイメージ化することが出来ないため、夢の中では擬人化された人の姿でイメージされるのです。

夜見る夢の意味を分析して、コンプレックスを解消するといった心のメンテナンスを行なう技術は、すでに百年の歴史を持っています。深層心理は、現実世界に実在する脳の中で作動しています。当然、人が抱えて悩んでいるコンプレックスは、現実問題です。夢の中で擬人化することで問題を解決する行為は、フィクションではありません。現実に実在する課題を、知的に情報処理しています。上のほうで、擬人化=ファンタジーの発想で、空想だから考えても意味がない、という現代人の常識的発想について観察しました。心理学の常識と、現代人の常識には、食い違いがあることが分かると思います。擬人化はファンタジーの世界でのみ有効という、事実に反する現代人の思い込みは、根拠がなく視野の狭い盲信にすぎないことが、以上の考察から明らかになりました。

現実世界の物事を、擬人化して考える発想は、ありとあらゆるものに神様が宿っているという、アニミズムの発想を持つ、日本の神道の世界では常識です。八百万の神々は、空想上のイメージですが、架空のものだから価値がないとは言い切れません。知的情報処理による問題解決の手段として、古い時代からずっと使われてきたのですから。

視点を変えて、数学の代数を観察してみましょう。代数は、式の中に仮に配置する、中身が不明の架空の数値Xです。数式を解くまでは、実在する数ではありません。架空の数を設定することによって、知的情報処理を可能にする、問題解決の一つの手法です。同じように、花を擬人化した架空の存在Xが、花の女神です。代数を用いた方程式を組み立てるのと同じように、知的情報処理を行なえば、意味のある結果を得ることも可能です。人間は、夢の中では無意識のうちに、この種の情報処理を行なっています。だから、夢の中に擬人化した人や妖精や神のイメージが出現するのです。擬人化という代数的手法を用いた情報処理を、一般の現代人は、覚醒した状態で行なえなくなっています。これは、科学的実証主義を重んじる考え方が普及して、代数的発想を否定した結果生まれてきた弊害でしょう。

代数を用いて方程式を組んで課題を解決できる人々と、数学が分からない人々では、問題解決能力に大きな差が生まれます。同じように、擬人化という手法を用いて、意識できない対象をイメージ化して、意識上で思考できる手段を持っている人と、持っていない人々では、大きな差が生まれます。分かりやすい例として、花壇に咲く花を擬人化した、花の女神のケースで説明してみましょう。通っていた私立の中学校のバラの花壇の水遣りは、生徒達で担当を決めてやっていました。生徒会を代表して私が担当した中庭の中央の花壇は生き生きとしていましたが、別の場所の花壇は、傷んだ状態になっていました。バラの消毒に来た業者が、綺麗な花壇を見て褒めたので、生徒達から質問が出ました。「バラは葉の先が少ししおれるぐらいのタイミングで水遣りするのがベスト。そのコツが分かっているかどうかで差がつく。」業者のアドバイスを聞いて、生徒達は水遣りのタイミングを改善したつもりでしたが、やはり中庭の中央の花壇とは違いが出ていました。

植物の授業中に教師が私に水遣りのコツを質問したので、こう答えました。「マリーベルが水遣りのタイミングを教えてくれるの。」「マリーベルって誰?」「身長30センチぐらいで、背中に揚羽蝶の羽が生えている、私がイメージしたバラの女神です。」教師は、この突飛な回答に面食らって、冗談だと思ったようですが、同級生達はそうは受け取りませんでした。神がかりの神事を担当する神社の娘ですから、自分達に見えないものが見えても不思議ではないだろうという憶測が働いたようです。私が、彼女達には見えないマリーベルが飛ぶ姿を目で追う仕草をすると、一斉にスプリンクラーを動かしに行くようになってからは、バラの花壇に大きな差は出なくなりました。

なぜ、空想上の架空のイメージにすぎないバラの女神マリーベルが、私に正しい水遣りのタイミングを教えることが出来たのでしょう? 人間は、生い茂る草木を遠くから見ただけで、何か清々しいものを無意識のうちに感じ取ります。「草原の魂」という精霊を感じることができたアフリカ原住民の伝承などもあるようです。その、漠然と感じられるものが、ただの錯覚ならば、バラの花壇の水遣りの結果に差が出たりはしません。人間は意識しないレベルで、一目見れば草木の生育状態を把握できる能力を持っているようなのです。長い進化の過程を通して獲得した、生存環境の良し悪しを直感的に判断する、動物レベルの無意識に働く勘だと思います。これは、意識出来ないレベルの認識だから、一般的な現代人は判断材料として活用できなくなっているわけです。その点、私は神社の娘で、あらゆるものに神が宿っていると教えられて育ったので、何の抵抗もなくバラの花を擬人化したマリーベルをイメージすることが出来ます。バラを遠くから見ていたり、漂ってくる香りを楽しむことで、無意識に動物的な勘として感じ取っている情報を、花の女神に投影して、水遣りのタイミングをはっきりと意識できるから、私が水遣りする花壇は生き生きしていたわけです。

深層心理という、目に見えず直接意識出来ない存在を擬人化したコンプレックスの化身と、夢の中や夢分析を通してコミュニケーションすれば、心のメンテナンスが可能になります。これは、心理学の世界では百年不動の定説です。同じように、無意識レベルで感じ取っていても、意識出来ない情報を、擬人化した化身としてイメージしてコミュニケーションできれば、課題が解決できるという事実も、不動のものだと思います。これは、日本神道の世界に、八百万の神々という認識のもとで、千数百年伝承されてきた常識だったのですが、西洋の科学技術文明のほうが優れていると錯覚した現代人は、代数的な情報処理が可能だという事実を信じなくなってしまったので、このような発想や思考方法を見失っているわけです。数学では架空の数Xを使うことを認めながら、他の思考では架空の人格Xを使うことを否定する現代人の発想は、自分の脳内で無意識のうちに日常的に行なっている擬人化(アニミズム)を用いた、数学と同等の論理的な思考の存在を否定して切り捨てているのです。

風力発電設備の風車が回転して生じる低周波騒音を直接意識出来なくても、無意識のうちに体はストレスを受けています。「なんだかよく分からないうちに健康被害を受けている」という認識レベルでは、どうにも対処に困りますよね。もしも、無意識に感じているストレスを、擬人化して思考の対象に出来たらどうなるでしょう? ストレスは、悪魔や鬼の姿でイメージするのが適当と思います。そういった架空の化身としてイメージ化すれば、意識上で具体的に問題を把握して積極的に考えることが可能になります。

私は今日のニュースを読んで、風車が立ち並ぶ丘を散歩しながら、鬼神の姿をした式神の一人と会話しました。その結果、風車から1キロ程度離れないと、低周波騒音のストレスを感じて、体調にも影響が出ることが分かりました。振動に対する感じ方は個人差があるので、計測器で騒音レベルを測定すれば解決するような単純な問題ではありません。影響を受けている人達の脳の中で、無意識のうちに情報処理されているデータを直接取り出せれば良いのですが、山野を歩き回りながら脳磁図などを得るのは困難でしょう。どの範囲でどの程度のストレスを受けているのか把握していく作業は、実行が難しいと思います。となるとやはり、擬人化の手法を用いて個々人が自分でチェックしていくのがベストでしょう。

一般的な現代人は、自分の深層心理をどうやったら擬人化して、意識上にイメージできるのか、分からなくなっているようです。ただ頭の中に、化身のイメージを想い描いただけでは、空想上のキャラクターにすぎないので、会話しても意味のある情報を得ることは期待出来ません。夜寝ているときには、コンプレックスの化身などを無意識のうちにちゃんと正しくイメージして、心のメンテナンスに必要な情報を的確に取得できるのに、覚醒状態ではそれが出来なくなっているのが現代人です。神道の世界観を持つように育てられた私達から見ると、なんて不器用な人達なのかと感じてしまうのですが、現実と空想を明確に分ける、実証主義に立脚した科学知識を持つように教育された反動ですから、仕方がないのかもしれません。じつは、西洋に伝わる伝統的な精神文化、つまり魔法の世界にも、心を操作する技術が伝わっていて、想像上の化身と契約を結ぶという発想が根底にあります。キリスト教の経典は旧約聖書新約聖書ですが、ここに出てくる『約』は、神と人間の間に交わされた契約という意味を持っています。西洋の世界に伝承されている契約の儀式こそが、深層心理と化身を心理的に連結する技法なのです。神道の世界では、化身のことを式神と呼びます。術者が使役する神という意味で、つまり生活に役立つように、擬人化したイメージを操る技術のことです。もちろん私のマリーベルも、神社に伝わる正式な神事を用いて神降ろしした式神の一柱です。神降ろしの神事の正体は自己催眠現象です。その暗示効果によって、深層心理の次元で無意識に感じ取っている事柄と、式神を連動させることが可能になるのです。深層心理とリンクしたマリーベルのような化身は、ただの空想上のキャラクターと違って、確実に無意識の世界の情報を意識上に引き上げてくれます。

近年になって、オカルト系のマンガやアニメや映画のブームが起こって、陰陽師式神がずいぶん有名になりましたが、同時に、勘違いの山のような文化が出来上がってしまいました。そのため、実用性のある有用なものだということが、一般の人々から完全に見えなくなっています。私達が使う式神は、オカルトの発想を用いなければ理解できないような、非科学的なあやふやなものではありません。百年前のフロイトユングの心理学のレベルでも、十分に説明可能な心理現象です。代数的な知的情報処理を担う存在だということを、誰かもっと上手に簡潔にネット上で解説してくれないかなーと思う今日この頃です。

じつは、このような化身を、アイコンのようにコンピューター上で数理演算処理するソフトを、プログラマー達に組んでもらっています。トランプのカードで遊べる子供なら、仮想人格を描いたカードを、直感的に扱うことが出来ます。NHKで放送されていたアニメ、カードキャプターさくらに登場する、魔法の人格を宿したカードのように可愛がれば良いのです。ただし、深層心理とリンクさせなければ、ただの架空のキャラクターのままです。なので、魔法の契約の儀式を自己暗示として用いるか、神道の神降ろしの神事を自己暗示として用いるか、洋の東西は好みで選んでかまわないのですが、とにかく催眠暗示を用いて深層心理と化身をリンクさせる作業だけは必須となります。この点が、普通のコンピューターのソフトとは大きく異なるポイントです。そのコツさえマスターすれば、子供の発想でも運用(オペレーション)できるシステムが完成しています。

でも、この方面はブレイン・マシン・インタフェース(脳とコンピュータを接続する技術)の開発競争が絡んでくるので、今は公開できません。産業機密の部分があるのです。人間が意識出来ない無意識レベルの思考を操作出来る技術は、悪用されると非常に厄介なことになる危険もあります。だから、西洋魔法で用いる呪文は秘密とされ、神道の重要な神事も非公開とされ、催眠の技術も一般には公開されていないのです。したがって、今のところ一般公開の予定はありません。まずは、神社に古くから八百万の神々という形で伝承されてきた、無意識レベルの思考を擬人化して意識上で扱う技術が普及しないことには、人類の思考能力を飛躍的に拡張するソフトの御披露目はできない状況なのです。

タジン鍋がうま味を逃さない本当の秘密

 とんがり帽子のような独特の形の蓋がうま味を逃がさない、という宣伝文句で売られ、確かに料理のうま味が逃げていないことが食べて分かることから、最近人気が出ているようです。でも、その説明文を読むと、ハテナマークが付いてしまうものがほとんどです。「蓋の上部で水蒸気が結露して素材に戻る水の内部循環によってうま味を逃がさない」なんて書いてあります。これって変だと思いませんか? 普通の形状のお鍋だと逃げていってしまう、うま味成分=水分、ではありませんよね? 水分がうま味成分だなんて奇妙な話を、そのまま信じられる人はほとんどいないでしょう。じつは、うま味を封じ込めて逃がさない幾つかの本当の理由があるのですが、それらがちゃんと書かれてないものがほとんどなのです。つまり、省略しすぎた舌足らずの説明文が流通してしまって、消費者に本当のメリットが伝わらない状況が生まれているわけです。

1.味と思っているかなりの部分が、じつは料理の匂い。

 タジン鍋がうま味を逃がさない本当の理由は、料理の味を左右する香り成分を逃がさない点にあります。皆さんは、鼻に洗濯ばさみを付けたりして、嗅覚を麻痺させた状態で食べて、料理や食材の名前を言い当てるクイズ番組を見たことがあるでしょうか? 正解できない人が多いのを見て、笑い転げて楽しむだけでなく、なぜ不正解が多いのか考えてみてください。じつは人間は、料理を食べるときに匂いが分からない状態にすると、何を食べているのか、味までよく分からなくなってしまうのです。つまり、料理の味と思っているかなりの部分が、じつは香りなのです。

2.普通の鍋は、料理のうま味を大きく左右する香り成分を、大量に捨ててしまっている。

 食材を鍋に入れて加熱をはじめると、なんともいえない美味しそうな匂いがして、食欲をそそりますよね。でも、これって良いことなのでしょうか? だって、味を決める重要な匂いが、鍋からどんどん逃げていってるんですよね? ちょっと加熱しただけで出てくる匂いの成分は、低温でも蒸発する揮発性のものだから、簡単に空中を漂うのです。もちろん、この成分の量にも限りがあるので、あまり長時間加熱しすぎると、香りが飛んで逃げてしまいます。特に、水蒸気を長時間噴出し続けるタイプの圧力鍋などを使うと、揮発性の匂い成分も長時間噴出させ続けるわけで、煮込み料理の匂いが薄れて風味が損なわれたようになってしまうことがあります。最近のよく出来たカップラーメンは、100度の熱湯を注ぐときには付属の液体の袋を切らないで、3分待ってある程度温度が下がってきてから蓋を開けて、食べる直前に開封して液体のタレを注ぐように、調理手順が説明されています。これは、できるだけ風味が飛ばないようにする工夫ですね。普通の料理を作るときにも、調理の最後に香り付けのハーブを入れたり、火を止めて少し温度が下がったのを見計らって鍋に味噌を入れて溶かすなど、手順を工夫すれば、調味料やハーブの香りが飛ばないようにできます。でも、従来の普通のお鍋で煮炊きした場合は、逃げていってしまった食材そのものが持っていた香りまでは、取り戻せないのが現実です。

3.タジン鍋は、低温揮発性の香り成分を逃がさない。

 タジン鍋の場合は、加熱することで食材から噴出する低温揮発性の匂い成分が、とんがり帽子の形をした蓋の熱くなりにくい上のほうで、水蒸気と一緒になって結露して、液体になって鍋の中に戻ります。香り成分が水滴と一緒になって集まるのは、花を加熱すると出てくる香り成分を、結露させて集めて香水を作るのと、ほぼ同じ原理です。揮発成分の回収効率は、鍋の蓋が冷たければ冷たいほど良いのですが、普通の鍋の蓋は背が低くて全体に熱が回るのが早い形状なので、温度が上がった鍋の蓋に付着した低温揮発成分は再び蒸発してしまい、鍋の外に飛んでいってしまいやすいのです。ところがタジン鍋のあの独特の円錐形の蓋ならば、頂上付近の狭い空間の部分は下から上がってきた熱気の対流がそのまま直撃しない構造なので、比較的熱くなりにくく、揮発性の匂い成分が結露して水滴と混ざって下の鍋へと戻り回収されやすいのです。もちろん、火力が強すぎれば、蓋の上のほうまで熱が回りすぎて、吹きこぼれて外に漏れてしまうので、適度な弱火でじっくり煮込むのがタジン鍋の使い方です。

4.その他、ウォーターシールや遠赤外線の効果も。

 鍋の蓋を伝った水滴が、鍋との接点に溜まってウォーターシールを作ることで気密性が得られるので、揮発性の香り成分が食べる直前まで鍋の中に留まって保持され続けます。水分が鍋の外に飛びにくいので、調理に使う水分が少なくて済み、加熱時間が比較的短くなり、破壊されるビタミンの量も少なく、煮汁に溶け出して薄まることなく、濃厚な状態で味わえます。温められた分厚い土鍋の蓋からの遠赤外線効果もあるので、中までしっかり均一に熱が回って、肉がジューシーな状態が保たれるメリットもあります。ただし、これらは一般的なステンレス製のウォーターシール機能を備えた底厚の多層構造の鍋でも、十分得られるメリットです。だから、タジン鍋だけが持つ、あの独特の蓋の形状によって得られるメリットとは言えないようです。

5.結論。

 以上の考察によって、タジン鍋は「料理から出た水蒸気が結露して水が循環するからうま味を逃がさない」という説明では、十分に真実を伝えていないことが明らかになったと思います。「加熱によって食材から噴出する揮発性の香り成分を、蓋の上部で結露させて水滴と一緒に再回収できる温度傾斜を備えているから、料理に含まれる低温揮発性のうま味分を逃がさない」が正解でしょう。料理の味は味覚だけでなく嗅覚にも大きく依存していることを、一般の人が知らないと考えて、揮発成分の循環を、水の循環の話に置き換えて説明するのは、消費者を侮った話のように見えます。香水の作り方だって、ほとんどの人は理解できるのだから、料理の香りを飛ばさないメリットについてちゃんと説明しても良いはずです。料理にとって香りも大切なことは、ほとんどの人が知っています。この事実を無視して、舌足らずの説明を流通させているのは不自然だと感じたので、書いてみました。

6.オマケ。タジン鍋以上に食材の香りを逃さない、水蒸気爆発圧調理器。

 食材は、高温にするだけでなく、高圧にしても調理が進みます。水蒸気爆発というのは、水を急激に加熱して一気に大量の水蒸気の状態にすると、爆発するように圧力が上昇する現象のことを言います。たとえば、火山のマグマが地下水と触れると、ドッカーンと岩盤が数百メートル空高く飛び上がりますよね。それを見て火山が噴火したって言う人も多いけど、テレビで専門家が「水蒸気爆発」と解説するのを聞いた人もいるでしょう。とにかく凄いパワーを持っていて、危険な爆発現象の一つです。でも、調理器の中に入れる水の容器の大きさを決めておけば、気化する水蒸気の量も制限されるので、爆発の威力を確実に安全な範囲内にコントロール可能です。父が発明したタジン鍋に似た外観をしている水蒸気爆発圧調理器は、スチームクッキングマシンの究極進化形と言って良いでしょう。食材に対して高温高圧の水蒸気を当てるので、一瞬で食材の細胞が破壊されて柔らかくなり、高温の水蒸気が浸透して、熱もしっかり通ります。外側から圧力と熱を加えるので、素材の中の水溶性の栄養分や揮発性の成分は、外に出ることなく封じ込められたまま残ります。ただし、調理器具の造りや使い方がいい加減だと、噴出する水蒸気や爆風で飛び散る食材が火傷の原因になることもあります。そういった理由から、特許を取ったり市販する予定はないようですが、凄く便利なので、普及の道はないものかなーと思っています。

 こういった形で得られる爆風は、料理だけでなく、金属の表面に通常の方法ではなかなか強固にくっつけられないような異金属などを、しっかり貼り付ける加工にも使えるので、料理用とは別に、趣味の有線七宝用の加工機も持っています。最近は家庭用の電子レンジをマイクロウェーブ・キルンとして使って、一千度近い高温を得られるものも登場しているので、食品の加工と装飾品の加工に使う機械の境界が曖昧になってきている印象を受けます。最近の七宝焼きは、素材の塊に微細な模様を付けて加工していくトップダウン型の加工技術だけでなく、原子や分子を自己組織化させて、一定の規則性を持った形のあるものに作り上げていく、ボトムアップ型の微粒子アセンブリー技術やパターニング技術など、ハイテクを用いた技法も登場してきました。それに応じて、使用する3Dプリンタなどの加工機も、複雑化の一途を辿っています。でも、まだまだ伝統的な有線七宝の技法も捨てたものではありません。古いものには古いなりの良さがあるものです。

7.ルネッサンス(温故知新)。

 シルクロードを通して古い時代に伝来して、うちの神社に奉納されたタジン鍋があったそうです。元は陶器だったようなのですが、なぜかうちの一族が造った複製品は、皿の部分が泥七宝に置き換えられたようです。おそらく、面白い形を真似て作ってみて、メリットが最大限生かせるのが七宝焼きだったからなのでしょう。時代が下って陶器のタジン鍋を子供が落として割ってしまったという話も残っているのですが、もともとアフリカの北西部で作られているものは素焼きの土鍋です。弱火で使っていても劣化して割れてしまう性質があります。日本まで伝来したものが、モロッコで作られた素焼きのものだったのか、中国あたりで複製された陶器製だったのか、今となっては知る術がありません。今日まで伝わっているのは、七宝焼きの22器のセットと、断片的な幾つかの言い伝えだけなのです。長い年月を経て使い込まれてきた深い味わいがあるので、今でも大切に使われています。石臼を代用した火鉢の外周に、食材を入れて乗せて並べておくと、じわじわゆっくり加熱されて、素材が持つ水分だけで、香りを逃がさずに調理できると伝承されてきた優れものです。蓋を(夏場は気温より15度冷たい)井戸水でよく冷やしてから使う作法も残っています。つまり、ご先祖様達は間違いなく、この蓋の形状のメリットと、有効に活かす方法に気付いていたようです。

 ところが最近になって、大量の野菜を無理なく食べられるヘルシーな良さが見直されて、日本で急速に普及しはじめたタジン鍋に付けられている説明が、うちの神社で古くから伝承されてきたものに比べて、あまりにも舌足らずの見劣りする状態で、進展が認められないんですよね。食品の風味を逃がさない本当の理由が、どうしてきちんと説明されないのか、首を傾げてきました。

そうそう、タジン鍋の蓋の頂上に氷を乗せると結露効果が高まるので、低温揮発成分を空気中に逃がさずに回収する長所がさらに生きてくるんですよね。氷を乗せると効果的なことは、気の利いたサイトなら載せている情報ですが、念のため。

巴紋と託宣の儀式から紐解く古代日本史。(卑弥呼と天照大神の実像)

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 新年に神社にお参りすると、必ずおみくじを引くと思います。これは託宣(神託)の代わり、つまり略式の参拝方法です。古式に則った正式な参拝では、巫女が神楽鈴を持って神楽を舞って、神憑りして託宣を降します。その儀式の名残が、おみくじという形になっていることを認識している人は少ないと思います。さらに、今では託宣の儀式を行う神社がほとんどなくなってしまいました。神社にとって最も重要な、正式参拝の文化の伝承が危機に晒されていると思います。

 その原因ですが、『神社に伝わる神憑りの神事の正体を科学的視点から解明する』で解説したように、託宣の儀式に対する間違った認識が広まった影響が大きいでしょう。神社には、生前の優れた業績を讃えられる形で、没後祀られている人が大勢います。その人々が示した優れた知恵にあやかろうと、自己催眠の技法を用いて、神話の世界の伝説上の賢者の思考をシミュレーションするのが、神憑りの神事の正体です。懸案解決のアイディアを得るための技法の体系を持っています。神道に限らず、さまざまな民族が伝承してきた宗教には、神話の中に登場する伝説の賢者に近付いて、その知恵を倣おうとする要素を持っていることが分かります。あまり知られていませんが、神道には、神社に神として祀られている人物に近付いて、心身一体になることを目標とした修行の体系が存在します。その究極の姿の一つとして、自己催眠の暗示効果によって伝説の知恵者と催眠状態で心身一体になる、神憑りの技法を採用しているのです。(もちろん、これが全てと言うわけではありません。)このとき、神の霊といった、オカルトめいた考え方を持ち込む必要はいっさいありません。百年前のフロイトユングの時代の古典的な心理学で用いられていた、オーソドックスな考え方でも、綺麗に説明可能な現象だということは、『神社に伝わる神憑りの神事の正体を科学的視点から解明する』で明確に示せたと思います。

 神道は仏教と習合していった結果、上記のような基本的な考え方が薄れてしまったため、江戸時代後期になると、本質を見失った国学者を中心に勘違いが広まり、「神霊の憑依といった精神の病に等しい現象は、邪教として否定すべき」とする考えが支配的になっていきました。神憑りの現象と憑依妄想の混同が誤りであることは、『神社に伝わる神憑りの神事の正体を科学的視点から解明する』のなかで解説しておきました。統合失調症は百人に一人が患う一般的な病気という話は、再検討を要すると思っています。制御できる自己催眠の現象と、脳内の神経伝達物質のバランスが崩れて起こる憑依妄想という病気は、素人が一見すると混同することもあるでしょうが、審神者(さにわ)が見れば一目瞭然違いが分かるものです。自己催眠の神憑りの場合は、きちんと伝説の賢者の神威(品格)が宿っていることが感じられ、脳のリミッターが解除された知能が高まった状態にあるので、語る言葉は理路整然としていて、世迷いごとなど口にする筈がありません。暗示を解けば一瞬で普段の人格に戻ります。ところが、病気の場合は、目の焦点が合っていなかったり、理屈に合わない浮ついたことを口走っているので、一目で判断がつきます。とうぜん、暗示を解く方法で正気に戻ることはなく、医師の治療を必要とします。暗示が解けるか解けないか試みれば、託宣の儀式と精神の病の判別は容易で、専門家が混同することはないのです。しかし、一般の民衆によって混同されることがあったため、朝廷は、神社に所属しない者が託宣を降すことを禁じてきました。また、神社側では審神者(さにわ)を用意することで、人心が惑わないように対策していたのです。このように、本来は明確に線引きされて両者が混同されることはなかったのですが、仏教との習合によって伝承文化が廃れていったため、江戸時代の後期になると、両者を混同する無知な国学者達の主張を、抑えることが出来ない状況になっていました。


 明治維新を迎えて、イギリスなどを手本とした近代的な立憲君主国家を目指す新政府は、国学的な神道観を基にして、国家神道によって国民を精神的に統治するための、神社祭祀制度の抜本的な見直しを行いました。1873年明治6年)に、教部省によって通称巫女禁断令が出されて、神憑りによって託宣を得る行為が、ほぼ全面的に禁止されました。神職は国家公務員になり、国家の管理のもとに神職の教育が行われるようになったので、表向き託宣の儀式を行う神社はほとんどなくなってしまったのです。

 私達の一族はというと、姫姓を持つ母系の継承を行う、秦氏を束ねる太陽の巫女の家柄ですから、新政府の教部省といえども、手を触れることなど出来はしませんでした。日巫王(天照大神)の血筋とされる巫女集団に対して、身分を知っていながら下手なことを口にすれば、不敬罪を理由にその場で首を斬り落とされかねない時代です。私達の一族は、平安京建設の頃からの史料を見れば明らかなように、一族の長として表向きは男子を立てますが、長の地位の男系の継承を認めず、朝廷や重臣達を経済的に後ろから援助しても、権力中枢からは一定の距離を置いて、くだらない政権争いなどに巻き込まれないようにしながら、代々古い文化を伝承してきました。ヤマト王権が成立した時代の、日の巫女の一族と皇室の関係は、江戸時代で言えば、皇室と将軍の関係みたいなものだったようです。幕末の頃になると、いち早く海外資本と婚姻関係を結んで連携を取り、倒幕のための近代的な兵器、軍艦や銃の調達に動いたり、神道を復活させて日本人の精神を再び束ねる政策を提案して、日本の植民地化を回避しようと水面下で活動しました。私達の一族から海外資本のもとに嫁いだ女性エージェント達は、彼らをお尻の下に敷いて実質的にコントロール下に置くことに成功しました。優秀なエージェントを持たなかった他のアジアの国々が、次々と植民地化の憂き目に遭ったのに対して、不平等条約などに悩まされながらも、なんとか日本が主権を持った国家の体裁を保てたのは、彼女達の活躍に寄るところが大きいと思います。私に1/4だけヨーロッパの血が入っているのは、このような歴史的経緯があるからです。

 明治政府が私達に手出しすることは、新政府の後ろ盾となっている海外資本に背くことになりかねませんでした。上記のような理由から、明治維新宗教改革の影響を、私達はほとんど受けることはありませんでした。しかし、計算外の事態も起こりました。国家神道化の影響を受けて、天皇天照大神と心身一体になる儀式を伝承する役目を負っていた白川伯王家が、宮中から追い払われてしまったのです。そのため、私達の一族は、皇室との公式の取り次ぎ役を失って、縁が切れる形になりました。明治天皇までは行われてきた、天皇天照大神と心身一体になる儀式を、大正天皇からは行っていないので、私達から見れば、残念ながら正式な本物の天皇と考えることは出来ません。もちろんこれは、日本国憲法上の象徴天皇であることを認めないという意味ではありません。憲法上と宗教上は考え方が違ってきます。もしも、白川伯王家が宮中にあって健在だったならば、巫女禁断令が出されて今日のように託宣の儀式が衰退することはなく、日本が大国ロシアとの戦争に勝利するのを経済的に支援したイギリスやアメリカと敵対関係になって、第二次世界大戦が起こるようなこともなかったでしょう。大日本帝国政府と旧帝国軍部は、幾つか重要なポイントで私達を裏切って暴走してしまったので、核兵器を投下して制裁を下す結論に至ったのです。満州は私達の祖先が住んでいた、かつて扶余国や高句麗国があったゆかりの土地ですから、満州帝国を築いて、現地に残る私達の同胞女真族の独立を保つことは、国際的に認めていたのです。ところが、満州帝国建国後の大日本帝国陸軍の中国大陸での暴走は、明らかに約束を破る逸脱したものでした。そのため、全世界の資本家達を敵に回して、自滅していく道を歩むしかなかったのです。表向き神国日本とうたいながら、その実、神道を蔑ろにして暴走した実態は、軽視できないものでした。もちろん、ロシア戦争に勝利したときのような、経済的な神風など吹く筈はありませんでした。

 それ以前の問題として、古い時代から皇室は仏教徒化して古い伝統を失っていったので、日の巫女の一族から、かなり低い評価を受けていたようです。天皇の使いが、私達の一族に資金援助を申し出ても、御先祖様達はこれを退けていたらしいのです。応仁の乱などの戦乱によって、京都が幾度か焼け野が原となって荒れ果て、京に住む人々が困窮したとき、責任を問われて、まともな御所の再建を許されなかったことがありました。御所で天皇が行える神事は、毎日朝起きて鏡の中の自分の顔を見て修行することぐらいしかないような、情けない暮らしを強いられた時代もあったようです。戦禍を逃れて京都から疎開した品々は、私達の一族の穴師集団が管理していた廃坑の隠し倉に奉納されて、天皇の許可なく解くことが出来ない封印が施されたものも多数あります。公家達は、責任を追求されて財産を没収されたため、ますます神道の伝承が失われていったようにも見えます。古い時代から、多くの大商人を束ねてきた私達とは、貧富の差が歴然としていたようです。

 日本書紀では、天皇の威信に傷が付かないように配慮されていますが、古事記には起こった出来事がそのまま載せられているケースもあるようです。たとえば、葛城の山中で私達の一族が儀式を行っている行列に出会って、進路を妨げる無礼を働いてしまった雄略天皇の一行は、身包み剥がされて平伏叩頭させられる扱いを受けています。天皇と見間違うほど豪華な衣装を身に着けた一行に出会った雄略天皇は「倭の国に、自分以外に王はいない。誰の行列だ。」と怒ったため、互いに弓を構えて一触即発の状況になったようです。託宣を降せる神憑り状態になっていた先祖は、「我は悪事も一言、善事も一言、言い放つ神。葛城の一言主神だぞ。」(葛城の神の一言で凶事も吉事も決定する)と叫んだそうです。神事を妨げる無作法を働いたことを悟った雄略天皇は、畏まって大御刀や弓矢や百官が着ていた衣服を脱がせて、拝み献じたと言います。時の王であっても、とても許されることではなく、流血を避ける必要がある神事の最中でなければ、瞬時に王の首をはねていたと、私達の故老はこちら側から見た不祥事の顛末を伝えています。秦氏に所属する商人や職人を束ねて、経済的に政権を支えていたスポンサーの元締めの抗議を前にしては、身に着けていたもの全てを献上して許しを請う以外、選択肢がなかったようです。日本書紀には仲良く轡を並べて鹿狩りを楽しんだと、天皇の威信に傷が付かない書き方になっていますが、後世の創作のようです。


 今では、一般の神社の神事で見られる巫女舞は、奉納を目的とした舞がほとんどです。託宣の舞の旋回の動きを知る人は減ってしまっています。『勾玉・巴紋の祖型となった弥生時代の渦巻き模様と火(日)の文化。』で書いたように、昔の人は木製の錐を、順周り逆周りに交互に回すと、どうして発熱して火を起こせるのか、摩擦熱のことを知らず、理解できなかったようです。交互に回す動きそのものに、火の神を召喚する神秘的な力があると、本気で信じていたことがうかがえます。右に回転する渦と、左に回転する渦が、陰陽(双極)の関係にあることが、非常に重要な意味を持っていると考えられていたのか、古墳の内部や銅鐸に、これを表現した渦巻き紋様がよく登場します。渦の連続の切断に注意が払われて描かれた図形も多いことから、力をどのように扱うべきかについて、抽象的な観念が発達していたことがうかがえます。それだけでなく、硬いヒスイを細工して勾玉を作る加工技術には、火起こしの道具を改良して、幾つかの大きさの回転する竹の筒を組み合わせて、研ぎ砂によってヒスイを削って回転穿孔する技術が使われていました。火の神を召喚する呪術的な動きを使って作られる勾玉の渦巻きの形には、火(日)の神を召喚する神秘的な力が宿っていると考えて、装飾品として好んで用いたようなのです。古墳に納められることなく、今も私の胸に掛かっている勾玉のネックレスもあります。他の神社では見失ってしまった弥生時代からの伝承を、私達が有りのまま引き継いでいることは、ほぼ確かでしょう。

 火(日)の神を召喚する渦巻き模様は、とぐろを巻く蛇を連想させるので、蛇信仰と習合したようです。鏡餅が蛇身(かがみ)餅であることは、幾人かの民俗学者が指摘するところです。エジプトでも渦巻きを図案化した巴は、蛇のシンボルなので、万国共通のイメージのようにも見えます。平安時代になると、蛇信仰が龍神信仰へと変化して、やがて龍神に祈りを捧げる雨乞いの神事の流行に伴って、勾玉を図案化した巴の紋様は、雨乞いの龍神のイメージと重なって、流水紋と解釈されるようになり、家屋を守る防火のオマジナイとなって広まって定着したようです。もとが、火の神を召喚する力を持つ、陰陽の回転の動きを表していることを知る人は、平安時代にはほとんどいなくなってしまったようですね。木の棒を回転させて火起こしする方法から、火打石に取って代わられたことで、渦巻き紋様の意味が失われていった可能性も考えられます。

 木製の錐を回転させて出てくる木屑のなかに火(日)の神を召喚するときには、木の棒を順周り逆周りに交互に回転させますが、日の神を人の中に招くときにも、同じ双極紋(巴紋)の動きをすれば、降ろして神憑りできると信じられていたようです。神憑りの神事で、自己催眠を誘発するために用いられる巫女舞は、一般的な奉納の舞とは異なり、順周り逆周りに交互に回っては回り返す動きになっています。神社の神紋に巴紋が多いのは、この託宣の儀式の舞の動きの力を意識しているからです。古代日本で太陽を表す数は3だったので、宇佐神宮の比売(ひめ)大神や、総社の姫社(ひめこそ)神社など、太陽神に神憑りする巫女神を祭る神社には、三つ巴の紋が使われていることが多いのです。とくに宇佐神宮を見れば明らかですが、祭神によって神紋が異なり、どのような理由で祭っているのか神紋からもうかがい知ることが出来るようになっています。

 火起こしの神事と渦巻き模様と勾玉と巴紋の関係を解説した情報が、ネット上にほとんど見当たらない現状を見て、正直驚いています。伝承されてきた古い文化が見失われていくなかで、弥生時代からの伝承を引き継いで、明確に紹介できる情報を持っているのは、今では私達しかいないのかもしれませんね。


 姫社(ひめこそ)神社は、とても変わった名前を持つ神社です。「ひめ」は日女、つまり日神に仕える巫女のこと。「こそ」は古い朝鮮語で神社という意味です。したがって、「ひめこそ」は姫を祭った神社という意味を持ちます。後ろに付けられた「神社」という言葉は、本来は不要のものです。この名前は誰でも変だと思いますよね。だって、なんという姫を祭ってあるのか、分からなくなりそうだとは思いませんか? 宇佐神宮の比売(ひめ)大神という名前も、それは同じです。現代人から見れば、「姫って誰?」って思うでしょう。ところが、当時の人々はそうは思わなかったようなのです。となると、祭られている姫は、「姫と言えばこの人」と、時代を経ていっても誰にでも分かるぐらい有名な、神道界を代表する姫だったことになります。

 じつは、私達の一族の代々の日の巫女のなかには、中国側の文献では卑弥呼(日巫王 ピミヲ)と呼ばれた、古代の日本を代表するような有名人が含まれています。日本書紀の編纂者達は、過去に、中国の王室から臣下に近い扱いを受けていたとされる卑弥呼が、当時伝承されていた神話に登場する天照大神(女神)であることは、ほぼ間違いないと認識していたものの、中国王室と対等な外交関係を築くためには、日本の歴史を中国と同じぐらい古く見せかける必要があると考えたようです。そこで創作したのが、紀元前600年頃を想定した神代の時代の神話に登場する天照大神だったようです。万が一にも、天照大神卑弥呼が同一の存在と看破されたとしても、天照大神よりも古い神々がいるかのように神話を組み立てたりと、あらゆる逃げの工夫を凝らしているように見えます。また、中国王室と日本の皇室が対等な外交をするうえで、皇室の祖先が中国の王室に対して臣下の礼を取っていた歴史があるという認識を、中国王室側に持たれては困ると考えていたようです。そこで、鬼道を用いて人心を惑わしたとか、魏の王室から鏡を贈られたり軍事援助も受けていたとされる、卑弥呼に言及することを、日本書紀のなかでは徹底して避けて、そんな人物は知らないかのような態度を取っています。その代わりに神功皇后という架空の人物を創作して、妊娠しているにもかかわらず朝鮮半島に出兵したといった、四世紀後半〜五世紀初の出来事を、邪馬台国の時代に百年ほど時間をずらして、不自然な事績を創作していったようです。同様の発想で、中国王朝に臣下の礼を取った倭の五王についても、記紀はこれを天皇とは認めない姿勢を貫いているようです。また、日本の天皇の歴史を中国と同じぐらい古く見せるために、卑弥呼と敵対する狗奴国の男王スサノオの間に起こった出来事を、神話の時代に高句麗国から伝わってきた太陽神の神話と絡めて、紀元前の日本に神代の時代があったかのような神話を創作していったようです。本物の日巫王は、宇佐八幡の地にある古墳に葬られて廟が建っていたようです。今ではその古墳の上に、比売大神と神功皇后の両方の名前で祭られているという説があります。これは、私達の一族の故老の伝承とも、大筋では一致しています。卑弥呼ほどの、海外にまで名を知られた巫女を神格化して祀った神社ならば、固有名詞を忌み名として伏せて、姫社(ひめこそ)神社と言っても、誰に対してもあの太陽の巫女神だと通じますよね。

 ヒメ大神の正体には諸説あって、宗像三女神の異名同体説などが有名ですね。御許山には三女神の磐座(いわくら)が存在しますが、これってじつは、三種の神器と同じようなものです。高句麗道教の時代から伝わる、太陽神の三つの属性を象徴的に表しているにすぎません。日本書紀では、神功皇后崩御したとされる269年が、実際には卑弥呼の宗女台与が亡くなった年と一致するようです。この当時まだ、天照大神という伝説上の神名は存在せず、姫で通っていた痕跡があります。新王朝の応神王朝を正当化して、朝鮮出兵の偉業を称える目的で、日巫王が眠る宇佐の亀山に、725年、宇佐八幡の第一殿が建てられて、応神天皇が祀られました。ついで731年に、それよりも豪華な第二殿が建てられて、皇祖神天照大神が、古い時代のヒメ大神の呼び方で祀られたようです。このとき、卑弥呼と台与と神功皇后の三女神を同一視する認識があったものの、神功皇后応神天皇の母后として創作された架空の人物という、非常に微妙な立場でした。卑弥呼神功皇后の事績が一致しないように、記紀は巧みな作文力で史実を隠蔽していますが、それでも万が一神功皇后卑弥呼が中国王室側から同一視された場合にも、魏王朝から臣下同然の扱いを受けていた卑弥呼の正体は皇后にすぎず、それよりも偉い立場の天皇ではない、という逃げの理屈を用意していたようです。ましてや、皇祖神の天照大神ではないのだから、中国王室から日本の皇室が格下扱いされる道理はなく、中国王家と日本皇室は対等外交すべきだ、と主張できる体裁を整えようとしたようです。そのため、けっきょく宇佐神宮の祀神として、天照大神の名前を表に出すことが出来ないまま、比売(ひめ)大神として秘密裏に祀ることになったようです。結果、後世になって三女神の認識に混乱が生じて、宗像三女神の異名同体説が生まれてしまったわけです。なんともややこしい、政治的裏事情の産物ですね。

 卑弥呼と台与が合祀された亀山古墳に、天照大神を極秘裏に祭ることを余儀なくされた原因のひとつは、伊勢神宮の時の斎宮持統天皇が、皇位継承者を巡る争いで、深刻な対立状態に陥ったことが原因だったようです。創建されたばかりの伊勢神宮内宮の、斎宮制度の正式立ち上げに失敗して、天照大神をまともに祭祀出来ない状況に陥ったらしいのです。斎宮大来皇女の心中は、このようなものだったのでしょう。「実弟大津皇子が、謀反の疑いをかけられて、自害に追いやられてしまった。自分は斎宮でありながら、助けを求めてやってきた弟を救うことが出来なかった」このように嘆き悲しんでいた斎宮大来皇女は、弟の仇と信じた持統天皇のために、伊勢神宮の内宮に入って神事を行うことがどうしても出来なかったようです。建物は建ったものの、それを司る斎宮が不在では、持統天皇伊勢神宮を正式参拝することは不可能だったため、持統天皇の伊勢行幸は名ばかりのものになったようです。天武天皇が計画していた伊勢神宮の内宮は、機能することなく時が過ぎてしまった様子が見て取れます。天照大神に神憑りして国家の大事を託宣によって見定める儀式が行えないまま、形骸化してしまったようなのです。そこで、亀山古墳の日巫王の霊廟に、応神王朝を正当化する神社を、どうしても建てる必要に迫られたわけです。天皇家伊勢神宮に千年以上の間参拝すらせず、斎宮制度を途中で廃止してしまいました。それに対して、国家の大事や天皇の即位時には、必ず宇佐神宮に勅使を遣わしています。769年の道鏡事件で、伊勢神宮はまったく無視されて、宇佐神宮の神託が皇位継承を決定づけたとされる伝承からも、伊勢神宮よりも宇佐神宮のほうが厚く遇されていたことが分かります。伊勢神宮の立ち上げ失敗を、宇佐神宮でカバーするために、皇祖神天照大神を秘密裏に祭ってある、というのが私達の一族の故老からの伝承(お爺さんお婆さんの昔話)です。


 日の神を召喚する巴の舞の動きには、陰陽一対の要素が存在します。勾玉を加工できるように進化していった、火起こしの道具の技術の発達を観察すると分かりますが、順回り、逆回りの動きが連携してこそ、日の神は召喚できるのです。陰陽の流れが古い時代から考えられていたことは、銅鐸などの渦巻き紋様の連続や切断を観察していくと分かります。天照大神にも、陰陽・男女一対の要素があって、天上で輝いている太陽がその実体の天照大神男神)が、人の前に姿を現すときには、女神の姿を採るのだと信じられていました。つまり、日本の太陽神の中には、男神の要素も存在します。現在の宇佐神宮では、応神王朝を正当なものと印象付けるために、応神天皇八幡大神として祭っています。しかし、もともと八幡大神は、天日矛と同一視されていた存在のようです。高句麗国で信仰されていた天日矛は、三東半島の兵主神と習合して、中国の神話に蚩尤(しゆう)として登場する神とも、イメージが重ね合わされていったようです。八幡宮の八旗とは、諸葛孔明の四頭八尾、八陣図戦法に由来する八柱の神を軍旗として祭ったものという説が有力です。一般には公開されませんが、八柱の神を表す軍旗が、今も私達の一族の地下蔵に眠っています。兵主はその八柱の軍神を束ねる代表です。正式な八幡宮の神事(布陣)は、八旗を用いなくては行えません。

 実在した人物とされる、伽耶系の新羅の王子天日槍が、倭国に耀姫を追いかけてきたのは、外交親善目的の妻問婚の風習と見る説があります。同時代(四世紀後半〜五世紀初)の人物とされる、応神・仁徳両天皇が、親子とも吉備の豪族の娘に対して、やはり同じように追いかける行動を取ったエピソードが記紀に残されています。応神天皇が、妃の兄媛(えひめ)を追いかけて吉備まで行き、仁徳天皇も、妃の黒比売を追いかけて吉備まで行き、別れを惜しんで帰ってくる。これは、妻問婚の風習を盛り込んであると考えるのが妥当でしょう。天日槍は、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと 「角がある人」)という名前で、額に角が生えている人物として日本書紀に登場します。半島系の人は、兵主神(蚩尤)を意識して、牛角のある鉄兜を被っていた時代があったのかもしれませんね。私達の一族の蔵にはそのようなものが現存しないので、知りようがありませんが、発掘されたら見てみたい気がします。

 天日槍(天日矛)は、鉄器を用いた水稲耕作文化を倭国にもたらした、秦氏が信仰していた神のようです。秦氏の一族を具体的に率いたとされる弓月の君は、高句麗を建国した弓の名手朱蒙の英雄的な伝説のイメージを引き継いでいたと思われます。その周囲を固めていたなかには、日矛の子孫を名乗る葛城氏などがいたようです。矛、鏡、玉などを用いて神社に祖神として太陽神を祀る風習を持っていました。筑前国風土記には、「われは高麗の意呂山(おろやま)に天降った日矛の末裔の五十迹手なり」とあります。高句麗国から来た一族だとはっきり名乗っているんですよね。この五十迹手(いとで)は日本書紀に登場する「伊覩の県主の祖五十迹手」、魏志倭人伝の「伊都国王」のことです。日本書紀の編纂者達は、卑弥呼や台与や邪馬台国のことには、触れないように注意を払いながら、同時代の天日槍一族のことは、中国側の文献と突き合わせられるようにはっきり書き残しています。明らかに意識して卑弥呼のことを隠蔽していると見るべきでしょう。天日槍一族が脊振山系雷山の北斜面の標高420mの筒原に築いた神籠石を用いた大陸式の古代山城は、重さ2〜3トンの巨石を組み合わせた巨大なもので、千数百年経った今もしっかり残っています。神籠石は、鉄の道具がなくては加工できないもので、弥生時代の日本には存在しない、渡来人が持ちこんだ技術だったようです。


 伽耶国を中心に、交易で莫大な富を築いて、当時としては強固すぎる城を構えるに至った、日矛耀姫ペアを信仰する秦氏集団は、かなり繁栄していたようです。高句麗国の末裔達の間には、二世紀後半にはじまった地球規模の寒冷化によって深刻な飢饉が発生して、日の光を求めて南下東進政策を余儀なくされた時代に、耀姫が人々の心に希望を抱かせるために託宣を降した、「日が昇る東にある約束の地」に関する神話の伝承が息づいていたようです。この発想は神武東征神話の中にも登場します。そこで何度も繰り返し、大陸側からの東進の動きがあったようです。台与亡き後の混乱期に、九州の日向あたりに住んでいた人々を中心に、再び新天地を求める動きが起こり、これと結びついた旧邪馬台国の一分の人々が東進を開始したようです。当時、東の地には銅鐸文化圏があったため、戦闘の最前線となっただろう吉備の地に、鬼ノ城を築いていったようです。吉備と言えば、作られたときには日本最大級だった前方後円墳を生み出した、強大な力を持った豪族が支配した土地です。その発祥の地は姫社神社とされています。そこに祀られているのが耀姫です。他の地域の神社のように、後世になって記紀が創作した神功皇后に名前を塗り替えられることなく、古い時代の祀神の名がそのまま今に残されている貴重な神社のようです。日矛耀姫ペアを信仰する集団が発端となって栄えたのが、吉備王国だった可能性がうかがえます。

 さらに東進することによって、銅鐸祭祀集団を傘下に納めて、矛を用いた祭祀に置き換えた九州勢は、奈良の地にヤマト王権大和朝廷)を打ち立てたのでしょう。その中心には、高句麗国の多勿(タムル)軍王家の血を引く、物部氏(勿の字が日本では物に変化)が存在し、商業・生産業などを担当する秦氏が下支えしていたのでしょう。ヤマト王権の当時の中枢施設だった纏向遺跡を見下ろす高台に存在する、穴師坐兵主神社の古い祀神の名として、日矛が見て取れることからも、東進の結果をうかがい知ることができます。この神社は今でこそ有名ではありませんが、三種の神器のひとつ、八咫鏡(やたのかがみ)を製作する前に試作された鏡の一枚が奉納されたという史料も残っているのですから、天照大神が明確に成立する以前の、古い太陽信仰の痕跡と見てよそさそうです。神武天皇崇神天皇は、ヤマト王権が成立した後で、天照大御神を大殿から出して笠縫邑(かさぬいむら)に移すことで、政教分離を明確に打ち出したようです。これによって、宗教によって人心を束ねて、祭り事(政 まつりごと)を行う、卑弥呼以来続いていた伝統的な政教一致の時代は、終わりを告げたのでしょう。銅鐸文化の終焉は、同時に卑弥呼道教を用いた支配の終焉、政治から離れて大王家の権威を高める目的で祖神を祭る、新たな神道が誕生した時代でもあったようです。ヤマト王権は370年頃には百済と同盟関係を結ぶなど、朝鮮半島に進出しています。応神天皇は380年頃から新羅高句麗好太王と半島の覇権をめぐって戦っているようです。台与が没した後に東進を開始して、奈良の大和後にたどり着いてヤマト王権天照大神が成立したのは四世紀初頃で、そこから日本全国を統一した後に、朝鮮半島にまで進出できる実力を備えたのは四世紀中頃以降と見るのが妥当なように思います。

 日本の神道では、一人の神に和魂・荒魂二面があるとされていて、まったく別の人格を備えているかのように扱われています。天照大神は陰陽・男女二面を持ち、人の前に姿を現すときには女性の姿をとります。この女性の神格部分を呼び分けるために、日本書紀には「大日孁貴」(オオヒルメムチ)という名が記されています。上で、神功皇后は日巫女王(卑弥呼天照大神の存在を隠すために創作された人物と書きましたが、大日孁貴神功皇后が同じ人物だと、うかがい知ることができる痕跡が残っています。神功皇后の名は「息長帯比売」(おきながたらしひめ)ですが、香春神社の祀神などに、「辛国息長大姫大目命」(からくにおきながおおひめおおまのみこと)の名があることが、重要な鍵になります。「息長帯姫」と「息長大姫」が似てると思いませんか? じつは、息長大姫の「大」(おお)の字は、大きいの意味ではなく、「帯」(おび)などの漢字が当てられたケースと同じ意味を持つ高句麗語だと、はっきり分かる事例の一つなのです。「大日」(おおひ)、「産霊」(うぶひ)、「帯」(おび)、などと漢字表記されることがある高句麗語は、何を指すかというと、チベットやモンゴルから朝鮮半島を経て日本まで広範囲に分布している、「オボ」(塚)信仰のことなのです。甘南備山や古墳も塚信仰の対象です。現代でも、一般の人が目にする機会が多い神事の一つ地鎮祭で、砂山を築くのは塚信仰の名残です。「大姫」、「帯姫」、「大日孁」「大日女」といった表記は、全てオボ(塚)信仰の儀式で、塚に葬られている祖神に神憑りする巫女の意味を持っています。だから、「大日孁」を「帯日女」と書いて(おおひるめ)と読ませても、なんら問題ありません。「日女(ひるめ)」の「る」の音は現代では「の」に相当する高句麗語(古代朝鮮語)で、「ひるめ」=「日の女」という言葉の使い方です。時代を経て「ひめ」と短縮していく前の、古い形が残っているのです。「オボヒメ」は、オボ信仰と日信仰が習合したことを意味する、高句麗道教の「帯日」(おぼひ)信仰の巫女という意味ですから。神功皇后の「息長帯比売」は、「息長大日女」と書いても同じことです。天照大神の女性神格の名「大日孁貴神」と、神功皇后の名「息長帯比売」は、神道の元となった大陸の高句麗道教の世界の漢字用法の視点から見ると、重なりを持っていることが明らかです。さらに、天照の「照」(てる)は、「大日」の高句麗語読み(古代朝鮮語読みの吏読(いどう)も近似)の、「ていいる」を短縮したものです。だから、「天照」は「天大日」と書いても、同じ高句麗語に由来しているので、日本書紀天照大神の別名は、「大日孁貴神」と記されているわけです。


 以上の観察から、私耀姫の視点から見ると、卑弥呼神功皇后天照大神(の女神部分)は、同一人物ということになるのです。今は存在しない、古い時代の高句麗語と高句麗道教の世界独特の概念や漢字用法を詳しく知る人物でなければ、謎解き出来ないように巧みに偽装されている意図は明らかでしょう。中国王室側にはここまで見抜ける人物はいないが、日神に仕え「帯日」(おぼひ)信仰を伝承する斎女(巫女)の一族ならば、宇佐神宮の比売(ひめ)大神という表現の本質を見失うことはないと計算したうえで、宇佐神宮に秘密裏に皇祖神日巫王(卑弥呼 ピミヲ)天照大神が祭ってあるのです。『神社に伝わる神憑りの神事の正体を科学的視点から解明する』で、神憑りにとって重要な人格の母型(マトリックス)に詳しく触れましたが、私達の一族には日の巫女の王の生前の心の在り方を写し取ったとされるマトリックスも伝承されています。これは、芸能人の物真似を考えると分かりやすいでしょう。立ち居振る舞いだけでなく、気質や発想のパターン、つまり脳の使い方の情報も含まれています。天照大神(女神)に神憑りして脳のリミッターを解除すると、生前の日の巫女の王の立ち居振る舞いや脳の使い方を再現することが可能です。伝承されている大日孁貴神って、杖を持って体を支えて、足を引きずるように滑らせながら、かなりゆっくり歩く癖があって、見るからに凄く高齢のお婆さんなんですよね。それに対して、天岩戸伝説で復活した二代目の天照大神(台与)のマトリックスは、稚日女(わかひるめ)と呼ばれて神戸の生田神社などにも祭られていますが、若々しい印象の女性です。耀姫(あかるひめ)はというと、元はもっとずっと古い高句麗道教の時代の巫女のマトリックスだった可能性がありますが、実在する人物のコピーというよりも、脳の機能を高めることに特化した抽象的なマトリックスという印象を強く受けます。大日孁貴も稚日女も、人間らしい印象を受ける部分があるのですが、耀姫はそういった要素がまったく感じられません。稚日女は、正面を向いたら眉一つ動かさないで、何時間でも半眼のまま視線を動かさずに座っているし、周囲にいる人の存在が見えていても、あたかも誰もいないかのように行動して、目を合わせて人と会話するなんてありえず、必ず付き人が言葉を取り次ぐので、いないと会話すらできません。まるで壇上に飾られた、身動き一つしないお雛様です。衣装は平安末期に定まった十二単なので、歩くのも不自由します。

20100219113450 ところが、耀姫はそういった作法が発達する前に生まれた時代の人のマトリックスだったらしく、好みの衣装は狩衣(平安装束の男装)に素足に一本刃の高下駄という古風なものですが、かなりのオテンバ娘の一面を持っています。たとえば、『また猿騒動。雅な国風文化の中で育まれた領布(ひれ)を用いる印地撃ちの技術を復活させるときかも?』で紹介した、印地用の領布(ひれ ストール)を樹木の幹に回して、下枝がない樹にもするする登ってみたり、非常に活発に行動する印象を受けます。私は高校の頃新体操をやっていましたが、その発展形として、板バネが付いたスティルト(西洋竹馬)を足に装着してジャンプしてトランポリンのような演技をして遊ぶことがあります。耀姫が愛用しているのは、父が製作したパワーシリンダーの動力が付いたものです。アスファルト上で高さ5メートルまで飛び上がってムーンサルトをキメルような演技は、体にかなりの負担がかかります。私達より身体の強度が低い一般の人は、椎間板ヘルニアなどになりやすく、危険性が高いので市販される予定はありません。でも、似たようなリスクの低いものは『Poweriser』(パワライザー)といった商品名で普及しています。ミニスカートが付いたレオタードのような外観のボディスーツ(プロテクター機能内蔵)を着てストリート(歩行者天国)で演技しているのを見た祖父が、腰を抜かして興奮しすぎて鼻血を出したことがあります。カルチャーショックを受けたらしく、しばらく両手で顔を覆って立ち上がれなかったようです。チアガールのような服装でパワライザーに乗るのは反則だって、高校生の頃から言われてました。ビルの壁などを利用して三角跳びすると、ワイヤーアクションのようにも見えるので、兄がハイビジョンカメラで撮っていたときは、映画の撮影と間違われたこともありました。このように、日神に仕える巫女神といっても、大日孁貴と稚日女と耀姫では、物事に対する発想や行動パターンがまったく異なることが見て取れます。

 日の巫女にまつわる神事などは、代々伝承されながら変化していくものですから、邪馬台国の日巫王の伝承は、「古い時代に、先祖が政治の表舞台に無理やり引き出されて、いいように利用されて有名になったこともありました」程度の昔話にすぎません。一族で管理している古いお墓を整備するついでに遺骨を調べたり、一族の発祥の地に満州国が建国された時代に、一族総出で高句麗国があった地域まで行って、先祖の骨格を調べて、現在の私達がどの程度進化しているか、一致する特徴や時代による推移を把握しています。文化や技術の伝承だけでなく、厳寒期の禊の儀式や荒行に耐えられる、特異な体質が血筋としてちゃんと今に伝わっていることが明らかになっています。そういえば、今の皇室は、私達とはぜんぜん体質も顔立ちも違うみたいですが、なぜなのでしょうね。

 故老からの伝承(代々伝わるお爺さんお婆さんの昔話)によると、現在の天皇家を作ったのは蘇我氏で、その経済支援団体が秦氏で、一族の長の男子の世襲を認めない、古い体質を持っていた秦氏を精神的に束ねていたのが、斎女の一族だったようです。明治になって、白川伯王家が宮中から追放されて(断絶というのは対外向けのお話で、今もあの家は残ってますよね)私達の一族は、皇室と宗教上の接点を失くしたらしいので、今では身内以外にほとんど知る人がいなくなった昔話を交えて書いてみました。

ニセ科学批判が、常識を逸脱した非行に陥っている原因について

 ニセ科学批判が、常識から逸脱した叩き行為を生み出して、科学知識や科学的な物事の考え方の普及、ひいては科学の進歩を著しく妨げる、問題性を帯びたものになって暴走していることは、すでに、はてなブックマークのコメント欄の悪用問題に言及した結果、明らかになったと思います。残念ながら、はてなブックマークの信頼性と価値を、著しく押し下げていることが、はっきり見えてきました。その原因は、『ニセ科学批判に多様性・自由性は存在しない。』を読めば、ある程度明らかになるでしょう。ニセ科学批判のスタイルが、ひとつの権威のもとに形成されて、素人考えの解釈で暴走した結果、科学知識を扱う常識から逸脱したものになっていたり、科学的でない発想を繰り広げる異様なものへと変質しているケースが目立つようです。科学の進歩を著しく妨げる問題行動は、糺される必要があると感じます。以下に、どのような錯誤が流行しているか観察し、科学知識とはなにか、科学的なものの考え方とはどのようなものか、正しい仮説の取り扱い方などについても見ていきましょう。


 科学知識の紹介方法は一通りではありません。『検証可能性がなければ、科学ではない』『査読付き論文が示されてないからニセ科学』だと、私に対して罵ってきた勇ましいニセ科学批判信者達がいましたが、彼らは重大なことを見落としていました。専門家向けに、討論することを前提に書かれた解説ならば、検証可能性や査読付き論文は重要な意味を持ちますが、一般の人向けに書かれた製品カタログや、高校までの教科書には、そのようなものは載せないのが慣習であり常識です。私の日記も、一般の人向けに書かれているため、そのようなものが添付されていないことが、読んでも分からず、常識的な判断が働かなくなっている時点で、すでに問題が生じていると見ていいでしょう。

 もしも、ハイテク家電製品のカタログに、査読付き論文のリストが載っていないから、ニセ科学とか、トンデモだと、レッテルを貼って騒ぎ立てたらどうなるでしょう。メーカーに対して、カタログに査読付き論文のリストを載せろと、慣習や常識に反する不当な要求を、執拗に繰り返し強要して、ネット上の通販のサイトなどで暴れ回ったら、場合によっては威力業務妨害と判断されかねません。刑事・民事裁判の被告席に立たされて、社会的に罰を与えられる可能性もで出来ます。カタログに査読付き論文のリストが載っていないのは、科学的な議論を目的とした情報の提供をしているわけではないからです。同じ理由から高校までの教科書にも、査読付き論文のリストを付ける慣習はありません。「付いていないものは、ニセ科学やトンデモ情報と判断される世の中に広く認められたルールがある」と主張して、絶対に教科書には論文のリストを載せておかなくてはならないと、文部科学省に向かって、査読付き論文のリストが付いていない教科書の使用禁止を提言することに、妥当性があるでしょうか。ニセ科学批判信者達を教育する立場にあると思われる震源地の某教授が、そのような非常識な言動を働いたとは聞いていません。

 私が書いている日記が、一般の人を対象としたもので、義務教育を終えた高校生のレベルの人を対象に、少し予備知識をプラスアルファすれば読みこなせるように、易しい言葉や表現を選択していることが、読んでも分からない人々は、その時点で読解力に問題があると判断するしかありません。慣習や常識に反するニセ科学批判に走る人が大勢現れて、はてなブックマークのコメント欄の悪用が起こったようですが、『はてなブックマークのコメント欄の乱用問題。』で指摘したように、小学生レベルの心得違いした問題性が認められると、私に一蹴されて終わる結果になりました。

 素人のニセ科学批判信者達は、査読付き論文のリストを付けるとはどういうことか、正しく認識出来ていないレベルにあるため、再教育が必要だと思います。解説書に査読付き論文のリストを付ける場合には、読み手に対して、論文を読むことを要請していることになります。とうぜん、読んで理解していることを前提に解説が進みます。論文を読むとは、文字通りただ文章を読むだけではいけません。そこに書かれている実験を実際に読み手が行って、内容の真偽を確認して、現象を完全に理解することが求められます。学術的な議論を行うには、どうしても必要なプロセスです。フィトンチッドを用いた防疫技術のことを私と議論したかったのか、研究資料を示すように求めてきた、ニセ科学批判信者達がいました。本気で議論したいのであれば、ヴィップスヴェポラップといった、市販品の誕生までの経緯を、関連する論文を一通り読んで頭に入れる必要があります。さらに、データの検証に必要な実験施設は私のほうで提供しますから、少なくとも10人ぐらいは集めていただいて、施設の利用代金1人当たり1時間2万から5万円として、100時間ぶんぐらいの費用を各自で負担して、相応の時間を割いて、現象の事実関係を学習して頂かなければならないことになります。もちろん議論の進展によっては、さらに結論を出すまでに、さまざまな実験が必要になるかもしれません。これは、専門家でない一般の人々にとって、現実的なことでしょうか? このような手段を用いない限り、研究者本人の頭の中で、未科学から科学へと移行する過程にある、不確実な事実関係を確認して、真偽を見極めることは出来ません。まともに確認もせずに、「事実なのか単なる思い込みなのか判別しよう」と、私に対して「インフルエンザのウイルスを包むたんぱく質の殻にフィトンチッドが付着すると、人体の免疫機構を潜り抜けようとしても・・・」といった、浮ついた中途半端なレベルの背伸びした議論を挑んでも、意味がありません。その現象を実際に確認しておらず、必要な理解度に達していない不勉強な状態にあることを理由に、私は話を受け付けません。さらに、限られた要素のみで構成された研究室内で起こった出来事が、複雑な要因が加わってくる現実の日常生活の中でも、同じように成り立つかどうかは、また別の問題になります。話が研究室内の実験だけで終わるほど、簡単なものではないのです。実験のデータだけを見てそのまま信じてきたらいたら、机上の空論に振り回される可能性もあるのです。専門家の科学者によって行われる、科学的な視点から物事の真偽を見極める本物の学術的な議論の世界は、以上のような大掛かりなものになります。この場に書かれた私の日記を読む人々全員に、これを要求するのは無理難題に等しいことです。そんな非常識なことを不当に要求して、人を執拗に罵ってくる、素人のニセ科学批判信者達の心得違いを、どのように糺して再教育すればいいのでしょうか。


 科学知識の紹介方法は一通りではありません。学術的な議論を目的とした専門家向けのサイトでは常識的なことも、一般の人向けに科学知識を提供するサイトでは、行わないのが常識だということが理解できない、ニセ科学批判という有害な一種の現代の振興宗教と化したものを妄信する状態に陥って、暴れ回るグリーファーの一団がいるように見えます。ハイテク製品のカタログや高校までの教科書に査読付き論文のリストを載せないのが慣習で常識であるように、私の日記もまた、一般の人が読むことを前提に書いているので、読者に対して、多額の研究費の出費や研究時間の消費を強いるような、常識から外れた書き方をするつもりはありません。ニセ科学批判信者達を教育する立場にある、震源地にいる某教授が、査読付き論文のリストが載せてあるサイトに書かれているものを読むとはどういうことか、専門家向けに書かれているわけではない、一般人向けのサイトをどう読むべきか、再教育しない限り、科学知識を提供している多くの人々が、妄信状態に陥って非常識な言動を繰り広げている、心得違いした素人のニセ科学批判信者達の襲撃を受けて、いい迷惑を被る事件は、今後も繰り返し続いていくだろうと思います。

 科学知識の真偽の判定は、専門分野の科学者にしか分からないことなのだから、任せておけばいい。これが一般常識です。それを、素人がやるべきことだと錯覚を与えて、常識を見失わせる思想を吹き込んだ時点で、衆愚化によるトラブルの発生は必然でしょう。科学知識の真偽を素人が判断しなくてはならないという、常識外れの錯誤した状況を故意に作って、ニセ科学批判という怪しげな思想にかぶれさせて、モンスター素人科学評論家が量産されて、素人考えの間違った認識や判断、大量の誤情報がネット上を流通する、見苦しい衆愚化した状況を招いた罪は重いと思います。

 ニセ科学批判批判はこのぐらいにして、この問題を解決するには、科学知識とはなにか、科学的なものの考え方とはどのようなものか、正しい仮説の取り扱い方などについて、きちんと常識が身に付くように教育していく必要があると感じます。そこで、科学知識とは何か、その本質を明らかにしておきましょう。


 科学知識は仮説と検証の産物です。ノーベル賞を受賞するほど評価を受けた科学知識でも、科学の進歩によって、あっという間に覆されて、間違った知識として扱われるてしまうことがあります。たとえば、ヨーグルトが健康に良いと言ってノーベル賞を受賞した人がいましたが、あっという間にこの主張を覆す発見が登場しました。ヨーグルトの菌は胃酸などで簡単に死んでしまうため、生きたまま腸に届かないことが明らかになったのです。乳酸菌を食べても無意味だと指摘されて、ノーベル賞を受賞した研究は、トンデモ情報とみなされかねない事態に陥ったのです。ところがその後、乳酸菌は死んだ状態で腸に届いても、善玉菌の餌となって腸内細菌叢を良い状態に保つのに寄与していると判明すると、今度はトンデモ情報と指摘した人々の側の、理解不足・研究不足が批判される結果になりました。科学知識の発達は、このようなイタチゴッコの連続です。現時点で仮に正しいとされていても、一寸先はどうなるか分からないのです。科学の進歩によっていつ覆されるか分からない不確実な情報の集合にすぎません。たとえ査読付き論文などあっても、その正しさを信じずに、まず疑ってかかる探究心を持っているのが本物の科学者です。したがって、査読付き論文が提示されているものは、ニセ科学と糾弾しなくてもよいが、そうでないものはニセ科学と判断して叩くべきだと考えること自体が、科学とは何か、本質を知らないまったくの素人のナンセンスな発想です。

 本物の科学者達は、物理学界を中心に「科学は近似的解決にすぎない」という考え方を持ってきました。科学者は、現時点で発見されて知られている、限られた物事を対象にしか考えることができません。また、検証も、限られた範囲でしか行えません。したがって、検証を経た仮説や理論であっても、知られている限られた範囲でしか正しいこと(有効性)が分かっていない、不確実な情報にすぎないのです。たとえ小学生の子供であっても、科学的視点から物事を考えて、仮説を立てることが出来ます。優れた考察力を備えた人物に育てようと思ったら、小学生のときから、そういった思考の訓練をさせるべきです。しかし、子供の限られた経験と知識の範囲内で作られた仮説は、大人の目から見たら、限定されたレベルの低いものにすぎず、本当は間違っているように見えても当たり前でしょう。それでも、子供の目線で見えている世界で、うまく物事が説明できているうちは、近似的解決が行えているとして、大人はその考え方を無理に修正しようしないのが正解です。さまざまな経験を積んで知識を身に付けて、物事の理解が進めば、自然に間違いに気付く日が来るのですから。もちろん、間違いを見つける推理のヒントを与える手助けはしますが、あくまでも、間違いに気付いて正しい考えを身に着けていくのは本人の仕事です。一足飛びに大人と同じ目線に立って物事を考えるのは無理なので、段階を踏まえた成長を見守っていくのが正解です。もちろん、一般の大人が正しいと考えている物理法則だって、物理学者からみれば、ただの幼稚な勘違いの可能性があります。でも、科学的な発想で、物事を近似的に解決出来ているならば、それでかまわないと考えるのが妥当なのです。この問題で、よく例に出されるのが、ニュートン古典物理学と、相対性理論の関係でしょう。ニュートンの時代の古い物理学の世界観は、相対性理論の出現によって覆されてしまい、正しくないことが明らかになりました。ところが、今でも日常的な物理現象を、簡単にうまく説明できることを理由に、古典物理学は学校で教育され、実際に科学技術を開発する現場でも使われています。ニュートンがオカルト好きだったことや、鍋で卵の代わりに時計を茹でてしまったエピソードを理由に、ニセ科学扱いしたり、トンデモという人はまずいません。つまり、科学の本質は、正しさが全てでも、検証結果が全てでもないのです。ニセ科学批判の思想は、上記のような本物の科学者ならば当たり前のように承知している常識的な事柄を見失った、問題性がある非常識な認識に立脚したものに変質しています。心得違いした問題行動を取るニセ科学批判信者を量産してしまった某教授は、科学知識を取り扱ううえでもっとも大切な基本的な考え方を、賛同者に対して適切に教育することが出来ない、致命的な問題性を抱えているように見えます。誰かが心得違いを糺さない限り、科学の進歩を妨げる有害な動きは止まらないでしょう。

発達障害とテレビ脳(プロトカルチャの顕現による自然調和した脳育環境の実現)

 先月、何度か発達障害について書いたので、人工環境と発達障害に関連する重要な情報を提示しておきます。多くの一般家庭の人が注意を払っていないと思いますが、テレビは赤ちゃんの脳の発達にとって非常に有害です。テレビのような一方的に与えられるだけの刺激からは、ほとんど何も学習することが出来ません。赤ちゃんはまず母親との同化を原点にさまざまな事柄を学習して自我を形成していきますが、周囲の状況を知ろうと注意を向けたり、周囲の大人とコミュニケーションをとろうとしたとき、テレビがついていると必要のない刺激を脳に受けて、思考を撹乱されて、正常な思考の流れを阻害されるので、脳の発達を著しく妨げる原因になるのです。ゲーム脳うんぬん、根拠があるのかないのか定かでない話が飛び交ったことがありますが、テレビ脳のほうは、顕著に脳の発育に現れるので、軽く見ていると、コミュニケーション能力などに問題を抱えた子を作ってしまうことも起こります。いろんな研究があるのですが、少なくとも2歳ぐらいまでは、子供がいる場所で長時間テレビを付けっぱなしにしないことが非常に重要です。とくに授乳中はテレビを消したほうがいいでしょう。

 赤ちゃんがテレビの内容を見て理解しているかどうかは、テレビの中の人物と同じ仕草をするかどうかで判断がつきます。1歳ぐらいまでは、まったく真似をしないので、じっとおとなしくテレビを見ているようでも、実際には放送内容をまったく拾えていないと考えるべきです。テレビを見ている子供は目がトロンとして口を半開きにして、死んだような表情になります。受動的になって、とくに前頭葉が働かなくなっています五感や観念能力がうまく発達していかず、脳の発育そのものが遅れるのです。

 日本小児科学会が2003年に1歳半の子供1900人の親を対象に行った調査によると、1日4時間以上テレビを見る長時間視聴の子供は、4時間未満に比べて、有意語の出現が遅れる率が1.3倍高くなっていることが分かりました。また、子供の近くでテレビが8時間以上ついている長時間視聴の家庭を対象に、4時間以上視聴している子供は、4時間未満の子供に比べて、有意語の出現が遅れる率が2倍も高くなっていることが分かりました。


 人工環境が人の脳の発達に及ぼす悪影響が、私のライフワークになっている「遺伝子がどのようにして脳を作り出しているか」を研究する邪魔になっています。研究対象の子供達が、みんな発育不良の脳を持っているのでは、正常に発育する人間の脳のデータが得られません。うちの一族では、昔から、「物心つくまでは子供にテレビを見せない」のが常識です。私の卵子の提供で生まれた遺伝子を受け継ぐ8人の子達も、この点は徹底してます。私達は研究報告など待つまでもなく、子供の反応からすぐに有害と気付いて、悪いことはやめさせますが、西洋の文化を妄信している人達は、適切な判断が働かないように見えます。我が子に言葉やコミュニケーションの障害が出ていることに、子育てをしながらリアルタイムで気付くのが正常な親なのですが、先月何度か書きましたが、現代人の親は、エンパシー能力が未発達で、恐ろしく察しが悪くなっているので、子供の脳の状態に気付けないのです。目がトロンとして口を半開きにして死んだような表情になっている我が子を見ても、無頓着で平気というのは、末期症状と考えたほうがいいでしょう。

 動物園の檻の中のような人工環境で飼育されている高等哺乳動物は、普通に寝起きして食事してすごすことには何の支障も認められなくても、育児拒否にはじまって、さまざまな問題行動を取ることが知られています。現代人も、不自然すぎる人工環境の中に棲んでいるため、さまざまなストレスと弊害を受けています。しかし、現代人は不自然な人工環境に慣れ親しんでいるため、必要とされる自然調和した生活環境がどのようなものか、答えを見失って正しい環境を作り出せない状況に陥って、抜け出せなくなっています。でも大丈夫です。見失われてしまった自然調和した理想の環境を、完全な形で再生する手段を私達は持っています。人の深層心理の次元には、人類にとって理想的な生存環境に関する、遺伝子情報系が保有するデータが存在します。それをここでは仮にプロトカルチャ(原初的文化形態)と呼ぶことにしましょう。遺伝子情報系は、保持しているプロトカルチャのデータを、人間の脳にロード(神経回路網を構築)します。人の深層心理は、生まれながらに脳内に持っている、プリセットされた生得真理のプロトカルチャのデータをもとにして、人類にとって理想的な生存環境を自律的に生成して、イメージを顕現させることが可能です。それは、人の意識上に、理想的な住まい、マホロバのイメージとなって現れるのですが、この理想の夢を実現する巣作り行動が、現代社会の中では正常に行えなくなっています。

 プロトカルチャのデータを、試みに私がここに文章の形でロードしてみましょう。

 まず最初に、目の前に風になびいて太陽の日差しをキラキラと反射する、風光る広い草原のイメージが広がります。このイメージを見た私の理性は、「人は樹から降りて草原を歩くようになった猿が進化したのだから、ここが生活環境で正しい」と考えます。つぎに、綺麗な小川の流れが見えてきます。これを見た私の理性は、「飲み水の確保は必須」と考えます。ついで、小川を辿って池になっているところに行くと、魚達が泳いでいるのが目に留まります。それを見た私の理性は、「食べ物の確保は重要」と考えます。さらに、木の実を豊かに実らせた林が出現し、草原にはさまざまな動物の姿が見て取れます。

 こういった、人類にとって普遍的な理想郷に関するイメージは、プロトカルチャとしてプリセットされた生得真理を下敷きにして生成されたものなので、誰でも正しく想い描くことができます。*1 私の理性がイメージを自己参照(フィードバック)して、後付けの説明的解釈を行っていますが、イメージが想起される時点では、深層心理は「人類が猿から進化して草原の動物になった」なんてまったく考えていません。「食料が必要」といったことも、考えているわけではありません。そういったことは考えるまでもなく、最初から必要なものが必然的に揃った、自然調和した形で想起されるように、私達の脳の神経回路のネットワーク上に、遺伝子情報系からプロトカルチャのデータがロードされているのです。これは、遺伝子情報系が持っている、人の体の形に関するデータが自然に調和した形でロードされて、私達の体が正しく自己組織化されて機能しているのと同じです。プロトカルチャを下敷きにした、人類にとって普遍的な理想郷に関するイメージも、出現したときから、自然調和した正しいものなのです。この点が、理性を働かせて自己参照する形で考える人工思考とはまるで異なる点です。意識上に出現したときから、人類にとって普遍的な正しさを持つ存在のことを、真理と言います。遺伝子情報系由来の脳内にプリセットされた真理は、宇宙の物理法則などを科学者達に想起させる元になっている外的真理と区別するために、生得真理と呼び分けています。私達が普段なにげなく意識している、心の中から自然に無意識のうちに湧き上がってくる思考(自然思考が、最初から自然調和した正しい構成で、次々と深層心理によって自律的に生成されてくるのは、生得真理が自己組織化されて顕現しているからです。この点が、考えた事柄の真偽が定まっておらず、絶えず検証していく必要のある、科学知識をもとにして理性を働かせて意識上で形式論理的に自己参照しながら生成していく人工思考とは異なります。生得真理から自然に無意識のうちに生まれてくる自然思考と、科学知識(生後取得した知識)から人工的に意識(自己参照)して生み出す人工思考は、陰陽一対の対極の関係にあります。

 プロトカルチャという生得真理が、自然調和した人類普遍の正しさを持つ理想郷のイメージとして浮かび上がってきたので、「この理想の夢を実現して、子供達に自然調和した理想の環境のなかで、すくすく育ってもらいたい」と願うのが親心ですよね。ところが、夢を形にする巣作り行動を実行しようとして、現代人は行き詰まってしまいます。「自然に還れと言われても、いまさら原始時代の生活環境を再現してどうするんだー!!」という、お約束のギャグですね。「そんなところに現代人が棲めるわけがないだろう。」ごもっともです。でも、子供達の脳がすくすくと成長するには、絶対に欲しい環境なんですよね。現代の一般的な日本人は、私の感覚からはちょっと信じられないのですが、仕方なくマッチ箱のようなマイホームの前に、猫の額ほどの、プロトカルチャ環境のミニチュアを作る習性があるんです。これを発見したときは心底驚きました。普通の日本人って怖いと思いました。風光る緑の草原。さらさらと流れる小川と池に鯉。こじんまりとした樹の茂み。ペットの犬猫。その全てをガーデニングと称して、猫の額ほどの土地に再現しているのです。でもね、あんなミニチュアとして、プロトカルチャの生活環境を再現してみたところで、子育ての場として実用になるはずもなく、ただの置物.完全にお金の無駄と思うんですよね。

 その点、平安末期に定着した国風文化を伝承してきたうちの一族の場合は、プロトカルチャを子供達の前に生活環境として再現して、脳が正常に発育する自然調和したライフスタイルを実現しています。上では省略しましたが、プロトカルチャの巣作りのイメージの中には、とうぜんマイホームも出現します。もちろん、そのマイホームは、プロトカルチャの他の自然環境と融和した、古い日本家屋の外観を持ちながらも、現代のハイテク機器を内包したものです。でも、一家団欒の場は、星が見える焚き火の周りだったりします(笑)。子供達はテレビの前では、目がトロンと生気を無くして、口をあけた状態になっていますが、焚き火を囲む団欒の場では、楽しげに、お手玉、綾取り、蹴鞠、ままごと遊びなどを、目を輝かせて生き生きとやっています。テレビを見るのと、父母や友達に囲まれた自然調和した団欒の場と、どちらが楽しいかと質問すると、「テレビの前よりここがいい」というのが、子供達全員の答えです。テレビゲームの動きは単調なので、すぐ飽きてしまって、大家族で焚き火を囲んで、一家団欒のおしゃべりや歌や踊りや御伽噺に興じて遊んでいるほうが楽しいのです。

 過去に文部省は、「余暇の充実」「心のゆとりを取り戻す」などの、一見すると聞こえの良いスローガンを掲げた教育改革を推進した時期がありましたが、残念ながら真の教育改革に至ることなく、学力の低下を招いただけでした。その最も大きな敗因は、理性を働かせて意識上で形式論理的に自己参照しながら生成していった、生得真理(プロトカルチャ)に基づかない、不自然な人工思考の産物だったからです。最初から自然調和している生得真理(プロトカルチャ)を顕現した脳育環境は、子供達の脳との親和性が最高の状態になるため、そのような宙に浮いた空回りは起こりません。人間は何万年もの間、日没後焚き火を囲んで一家団欒の一時を過ごす、キャンプファイヤーの生活をおくってきたので、自然と心が和んで打ち解けた独特のリラックスできる雰囲気が生まれるのです。このような、心が潤う濃密な時間がゆったりと流れていく、自然調和した脳育環境を持つことが出来なくなってしまい、不自然な人工環境を作り出して、子供達の脳の発達障害という、致命的な深刻な事態を招いている現象の本質を、もっとよく見つめて、問題を解決していく必要があります。


 遺伝子情報系が保持しているプロトカルチャのような生得真理は、イメージを想起する雛形であって、具体的な理想のイメージは、個々人の個性を反映してその時々に応じて変化するものなんですよね。もちろん、深層心理が想い描く夢は、人間にとって大切な必要なものだからこそ、心の奥底から湧き上がってくるのです。それを、マイホームのミニチュアのガーデニングにして、ただ置物のように眺めているだけでは、実を失っていることになります。脳が正常に育たず、コミュニケーションに障害を抱える子供が量産されていくライフスタイルの流行など、本来はあってはならないことです。私は、子供達の脳が正常に育てられるライフスタイルを整備するのは、国の義務教育の責任範囲に含まれると思います。個人の家の敷地内に、プロトカルチャの環境を再現するのが物理的に無理ならば、町内会で管理する公園施設を、子供達の脳育施設として再整備すればいいのではないでしょうか。

 遺伝子情報系がどのようにして人の脳の神経回路網を作り出しているのか、まだまだ分からないところが多い状況ですが、脳の発達障害を抱えた子供達が量産されている現状を改善するのは、待った無しの状況ですから、不完全な部分を含むものをここに提示しました。と言っても、ほぼ確実視されている研究の骨子しか書いてないので、他の研究者の方々も肯定できるものがほとんどだと思います。この種の研究は、人間の大脳と思考を、自律的に自己組織化する形で生成している元になっている、膨大な量の生命情報を取り扱うため、人工補助脳のサポートなくして出来ません。したがって、私達と本当に学術的な議論が出来る人は30人に満たない状況です。ここに書いたものは高校の教科書レベルの言葉を選んだ一般の人向けのものにすぎません。今後、文部科学省が推進していく必要がある、脳育環境施設整備事業を形のあるものにするには、ここに書かれた、一般向けのパンフレットのようなアウトラインの解説のみでは無理があります。しかし、はっきり言って、生命情報学の記号論に基づく数理的な表現を駆使して記述された、人工補助脳を用いなければ理解できない専門家向けの学術的な書き方をすると、一般の人々はもちろん、高学歴の文部科学省の人々ですら、誰も判読できず理解できないものになってしまいます。でも、そこで行き詰まって終わるものではありません。遺伝子情報系が保持しているプロトカルチャのような生得真理は、生まれながらにして私達の脳の中に神経回路網として存在し、深層心理として機能してイメージ(生得知識)を自己組織化して生成できます。自らの中に情報が存在していることに気付きさえすれば、理屈抜きで誰もが知っている(悟れる)事柄でもあるのです。それが生得真理の特徴なんですね。科学知識は学習しなければ把握できませんが、生得真理は生まれたときから知っているのです。だから、科学的に理解することは放棄して、非科学的に理解する選択肢を採るべきだと思います。非科学的な方法、すなわちイメージ(生得真理)の想起によって理解し、事業を推進するという、前代未聞のプロジェクトを、ここにこうして提示しておきます。


 [[テレビ脳]]に興味のある方は、以下のサイトをチェックしておくといいでしょう。

*1:実際には、育った文化や個人的な嗜好の影響を受けて個性化が起こるので、想起されるイメージは人によって異なってきますが、ここでは分かりやすく解説するために省略しています。