巴紋と託宣の儀式から紐解く古代日本史。(卑弥呼と天照大神の実像)

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 新年に神社にお参りすると、必ずおみくじを引くと思います。これは託宣(神託)の代わり、つまり略式の参拝方法です。古式に則った正式な参拝では、巫女が神楽鈴を持って神楽を舞って、神憑りして託宣を降します。その儀式の名残が、おみくじという形になっていることを認識している人は少ないと思います。さらに、今では託宣の儀式を行う神社がほとんどなくなってしまいました。神社にとって最も重要な、正式参拝の文化の伝承が危機に晒されていると思います。

 その原因ですが、『神社に伝わる神憑りの神事の正体を科学的視点から解明する』で解説したように、託宣の儀式に対する間違った認識が広まった影響が大きいでしょう。神社には、生前の優れた業績を讃えられる形で、没後祀られている人が大勢います。その人々が示した優れた知恵にあやかろうと、自己催眠の技法を用いて、神話の世界の伝説上の賢者の思考をシミュレーションするのが、神憑りの神事の正体です。懸案解決のアイディアを得るための技法の体系を持っています。神道に限らず、さまざまな民族が伝承してきた宗教には、神話の中に登場する伝説の賢者に近付いて、その知恵を倣おうとする要素を持っていることが分かります。あまり知られていませんが、神道には、神社に神として祀られている人物に近付いて、心身一体になることを目標とした修行の体系が存在します。その究極の姿の一つとして、自己催眠の暗示効果によって伝説の知恵者と催眠状態で心身一体になる、神憑りの技法を採用しているのです。(もちろん、これが全てと言うわけではありません。)このとき、神の霊といった、オカルトめいた考え方を持ち込む必要はいっさいありません。百年前のフロイトユングの時代の古典的な心理学で用いられていた、オーソドックスな考え方でも、綺麗に説明可能な現象だということは、『神社に伝わる神憑りの神事の正体を科学的視点から解明する』で明確に示せたと思います。

 神道は仏教と習合していった結果、上記のような基本的な考え方が薄れてしまったため、江戸時代後期になると、本質を見失った国学者を中心に勘違いが広まり、「神霊の憑依といった精神の病に等しい現象は、邪教として否定すべき」とする考えが支配的になっていきました。神憑りの現象と憑依妄想の混同が誤りであることは、『神社に伝わる神憑りの神事の正体を科学的視点から解明する』のなかで解説しておきました。統合失調症は百人に一人が患う一般的な病気という話は、再検討を要すると思っています。制御できる自己催眠の現象と、脳内の神経伝達物質のバランスが崩れて起こる憑依妄想という病気は、素人が一見すると混同することもあるでしょうが、審神者(さにわ)が見れば一目瞭然違いが分かるものです。自己催眠の神憑りの場合は、きちんと伝説の賢者の神威(品格)が宿っていることが感じられ、脳のリミッターが解除された知能が高まった状態にあるので、語る言葉は理路整然としていて、世迷いごとなど口にする筈がありません。暗示を解けば一瞬で普段の人格に戻ります。ところが、病気の場合は、目の焦点が合っていなかったり、理屈に合わない浮ついたことを口走っているので、一目で判断がつきます。とうぜん、暗示を解く方法で正気に戻ることはなく、医師の治療を必要とします。暗示が解けるか解けないか試みれば、託宣の儀式と精神の病の判別は容易で、専門家が混同することはないのです。しかし、一般の民衆によって混同されることがあったため、朝廷は、神社に所属しない者が託宣を降すことを禁じてきました。また、神社側では審神者(さにわ)を用意することで、人心が惑わないように対策していたのです。このように、本来は明確に線引きされて両者が混同されることはなかったのですが、仏教との習合によって伝承文化が廃れていったため、江戸時代の後期になると、両者を混同する無知な国学者達の主張を、抑えることが出来ない状況になっていました。


 明治維新を迎えて、イギリスなどを手本とした近代的な立憲君主国家を目指す新政府は、国学的な神道観を基にして、国家神道によって国民を精神的に統治するための、神社祭祀制度の抜本的な見直しを行いました。1873年明治6年)に、教部省によって通称巫女禁断令が出されて、神憑りによって託宣を得る行為が、ほぼ全面的に禁止されました。神職は国家公務員になり、国家の管理のもとに神職の教育が行われるようになったので、表向き託宣の儀式を行う神社はほとんどなくなってしまったのです。

 私達の一族はというと、姫姓を持つ母系の継承を行う、秦氏を束ねる太陽の巫女の家柄ですから、新政府の教部省といえども、手を触れることなど出来はしませんでした。日巫王(天照大神)の血筋とされる巫女集団に対して、身分を知っていながら下手なことを口にすれば、不敬罪を理由にその場で首を斬り落とされかねない時代です。私達の一族は、平安京建設の頃からの史料を見れば明らかなように、一族の長として表向きは男子を立てますが、長の地位の男系の継承を認めず、朝廷や重臣達を経済的に後ろから援助しても、権力中枢からは一定の距離を置いて、くだらない政権争いなどに巻き込まれないようにしながら、代々古い文化を伝承してきました。ヤマト王権が成立した時代の、日の巫女の一族と皇室の関係は、江戸時代で言えば、皇室と将軍の関係みたいなものだったようです。幕末の頃になると、いち早く海外資本と婚姻関係を結んで連携を取り、倒幕のための近代的な兵器、軍艦や銃の調達に動いたり、神道を復活させて日本人の精神を再び束ねる政策を提案して、日本の植民地化を回避しようと水面下で活動しました。私達の一族から海外資本のもとに嫁いだ女性エージェント達は、彼らをお尻の下に敷いて実質的にコントロール下に置くことに成功しました。優秀なエージェントを持たなかった他のアジアの国々が、次々と植民地化の憂き目に遭ったのに対して、不平等条約などに悩まされながらも、なんとか日本が主権を持った国家の体裁を保てたのは、彼女達の活躍に寄るところが大きいと思います。私に1/4だけヨーロッパの血が入っているのは、このような歴史的経緯があるからです。

 明治政府が私達に手出しすることは、新政府の後ろ盾となっている海外資本に背くことになりかねませんでした。上記のような理由から、明治維新宗教改革の影響を、私達はほとんど受けることはありませんでした。しかし、計算外の事態も起こりました。国家神道化の影響を受けて、天皇天照大神と心身一体になる儀式を伝承する役目を負っていた白川伯王家が、宮中から追い払われてしまったのです。そのため、私達の一族は、皇室との公式の取り次ぎ役を失って、縁が切れる形になりました。明治天皇までは行われてきた、天皇天照大神と心身一体になる儀式を、大正天皇からは行っていないので、私達から見れば、残念ながら正式な本物の天皇と考えることは出来ません。もちろんこれは、日本国憲法上の象徴天皇であることを認めないという意味ではありません。憲法上と宗教上は考え方が違ってきます。もしも、白川伯王家が宮中にあって健在だったならば、巫女禁断令が出されて今日のように託宣の儀式が衰退することはなく、日本が大国ロシアとの戦争に勝利するのを経済的に支援したイギリスやアメリカと敵対関係になって、第二次世界大戦が起こるようなこともなかったでしょう。大日本帝国政府と旧帝国軍部は、幾つか重要なポイントで私達を裏切って暴走してしまったので、核兵器を投下して制裁を下す結論に至ったのです。満州は私達の祖先が住んでいた、かつて扶余国や高句麗国があったゆかりの土地ですから、満州帝国を築いて、現地に残る私達の同胞女真族の独立を保つことは、国際的に認めていたのです。ところが、満州帝国建国後の大日本帝国陸軍の中国大陸での暴走は、明らかに約束を破る逸脱したものでした。そのため、全世界の資本家達を敵に回して、自滅していく道を歩むしかなかったのです。表向き神国日本とうたいながら、その実、神道を蔑ろにして暴走した実態は、軽視できないものでした。もちろん、ロシア戦争に勝利したときのような、経済的な神風など吹く筈はありませんでした。

 それ以前の問題として、古い時代から皇室は仏教徒化して古い伝統を失っていったので、日の巫女の一族から、かなり低い評価を受けていたようです。天皇の使いが、私達の一族に資金援助を申し出ても、御先祖様達はこれを退けていたらしいのです。応仁の乱などの戦乱によって、京都が幾度か焼け野が原となって荒れ果て、京に住む人々が困窮したとき、責任を問われて、まともな御所の再建を許されなかったことがありました。御所で天皇が行える神事は、毎日朝起きて鏡の中の自分の顔を見て修行することぐらいしかないような、情けない暮らしを強いられた時代もあったようです。戦禍を逃れて京都から疎開した品々は、私達の一族の穴師集団が管理していた廃坑の隠し倉に奉納されて、天皇の許可なく解くことが出来ない封印が施されたものも多数あります。公家達は、責任を追求されて財産を没収されたため、ますます神道の伝承が失われていったようにも見えます。古い時代から、多くの大商人を束ねてきた私達とは、貧富の差が歴然としていたようです。

 日本書紀では、天皇の威信に傷が付かないように配慮されていますが、古事記には起こった出来事がそのまま載せられているケースもあるようです。たとえば、葛城の山中で私達の一族が儀式を行っている行列に出会って、進路を妨げる無礼を働いてしまった雄略天皇の一行は、身包み剥がされて平伏叩頭させられる扱いを受けています。天皇と見間違うほど豪華な衣装を身に着けた一行に出会った雄略天皇は「倭の国に、自分以外に王はいない。誰の行列だ。」と怒ったため、互いに弓を構えて一触即発の状況になったようです。託宣を降せる神憑り状態になっていた先祖は、「我は悪事も一言、善事も一言、言い放つ神。葛城の一言主神だぞ。」(葛城の神の一言で凶事も吉事も決定する)と叫んだそうです。神事を妨げる無作法を働いたことを悟った雄略天皇は、畏まって大御刀や弓矢や百官が着ていた衣服を脱がせて、拝み献じたと言います。時の王であっても、とても許されることではなく、流血を避ける必要がある神事の最中でなければ、瞬時に王の首をはねていたと、私達の故老はこちら側から見た不祥事の顛末を伝えています。秦氏に所属する商人や職人を束ねて、経済的に政権を支えていたスポンサーの元締めの抗議を前にしては、身に着けていたもの全てを献上して許しを請う以外、選択肢がなかったようです。日本書紀には仲良く轡を並べて鹿狩りを楽しんだと、天皇の威信に傷が付かない書き方になっていますが、後世の創作のようです。


 今では、一般の神社の神事で見られる巫女舞は、奉納を目的とした舞がほとんどです。託宣の舞の旋回の動きを知る人は減ってしまっています。『勾玉・巴紋の祖型となった弥生時代の渦巻き模様と火(日)の文化。』で書いたように、昔の人は木製の錐を、順周り逆周りに交互に回すと、どうして発熱して火を起こせるのか、摩擦熱のことを知らず、理解できなかったようです。交互に回す動きそのものに、火の神を召喚する神秘的な力があると、本気で信じていたことがうかがえます。右に回転する渦と、左に回転する渦が、陰陽(双極)の関係にあることが、非常に重要な意味を持っていると考えられていたのか、古墳の内部や銅鐸に、これを表現した渦巻き紋様がよく登場します。渦の連続の切断に注意が払われて描かれた図形も多いことから、力をどのように扱うべきかについて、抽象的な観念が発達していたことがうかがえます。それだけでなく、硬いヒスイを細工して勾玉を作る加工技術には、火起こしの道具を改良して、幾つかの大きさの回転する竹の筒を組み合わせて、研ぎ砂によってヒスイを削って回転穿孔する技術が使われていました。火の神を召喚する呪術的な動きを使って作られる勾玉の渦巻きの形には、火(日)の神を召喚する神秘的な力が宿っていると考えて、装飾品として好んで用いたようなのです。古墳に納められることなく、今も私の胸に掛かっている勾玉のネックレスもあります。他の神社では見失ってしまった弥生時代からの伝承を、私達が有りのまま引き継いでいることは、ほぼ確かでしょう。

 火(日)の神を召喚する渦巻き模様は、とぐろを巻く蛇を連想させるので、蛇信仰と習合したようです。鏡餅が蛇身(かがみ)餅であることは、幾人かの民俗学者が指摘するところです。エジプトでも渦巻きを図案化した巴は、蛇のシンボルなので、万国共通のイメージのようにも見えます。平安時代になると、蛇信仰が龍神信仰へと変化して、やがて龍神に祈りを捧げる雨乞いの神事の流行に伴って、勾玉を図案化した巴の紋様は、雨乞いの龍神のイメージと重なって、流水紋と解釈されるようになり、家屋を守る防火のオマジナイとなって広まって定着したようです。もとが、火の神を召喚する力を持つ、陰陽の回転の動きを表していることを知る人は、平安時代にはほとんどいなくなってしまったようですね。木の棒を回転させて火起こしする方法から、火打石に取って代わられたことで、渦巻き紋様の意味が失われていった可能性も考えられます。

 木製の錐を回転させて出てくる木屑のなかに火(日)の神を召喚するときには、木の棒を順周り逆周りに交互に回転させますが、日の神を人の中に招くときにも、同じ双極紋(巴紋)の動きをすれば、降ろして神憑りできると信じられていたようです。神憑りの神事で、自己催眠を誘発するために用いられる巫女舞は、一般的な奉納の舞とは異なり、順周り逆周りに交互に回っては回り返す動きになっています。神社の神紋に巴紋が多いのは、この託宣の儀式の舞の動きの力を意識しているからです。古代日本で太陽を表す数は3だったので、宇佐神宮の比売(ひめ)大神や、総社の姫社(ひめこそ)神社など、太陽神に神憑りする巫女神を祭る神社には、三つ巴の紋が使われていることが多いのです。とくに宇佐神宮を見れば明らかですが、祭神によって神紋が異なり、どのような理由で祭っているのか神紋からもうかがい知ることが出来るようになっています。

 火起こしの神事と渦巻き模様と勾玉と巴紋の関係を解説した情報が、ネット上にほとんど見当たらない現状を見て、正直驚いています。伝承されてきた古い文化が見失われていくなかで、弥生時代からの伝承を引き継いで、明確に紹介できる情報を持っているのは、今では私達しかいないのかもしれませんね。


 姫社(ひめこそ)神社は、とても変わった名前を持つ神社です。「ひめ」は日女、つまり日神に仕える巫女のこと。「こそ」は古い朝鮮語で神社という意味です。したがって、「ひめこそ」は姫を祭った神社という意味を持ちます。後ろに付けられた「神社」という言葉は、本来は不要のものです。この名前は誰でも変だと思いますよね。だって、なんという姫を祭ってあるのか、分からなくなりそうだとは思いませんか? 宇佐神宮の比売(ひめ)大神という名前も、それは同じです。現代人から見れば、「姫って誰?」って思うでしょう。ところが、当時の人々はそうは思わなかったようなのです。となると、祭られている姫は、「姫と言えばこの人」と、時代を経ていっても誰にでも分かるぐらい有名な、神道界を代表する姫だったことになります。

 じつは、私達の一族の代々の日の巫女のなかには、中国側の文献では卑弥呼(日巫王 ピミヲ)と呼ばれた、古代の日本を代表するような有名人が含まれています。日本書紀の編纂者達は、過去に、中国の王室から臣下に近い扱いを受けていたとされる卑弥呼が、当時伝承されていた神話に登場する天照大神(女神)であることは、ほぼ間違いないと認識していたものの、中国王室と対等な外交関係を築くためには、日本の歴史を中国と同じぐらい古く見せかける必要があると考えたようです。そこで創作したのが、紀元前600年頃を想定した神代の時代の神話に登場する天照大神だったようです。万が一にも、天照大神卑弥呼が同一の存在と看破されたとしても、天照大神よりも古い神々がいるかのように神話を組み立てたりと、あらゆる逃げの工夫を凝らしているように見えます。また、中国王室と日本の皇室が対等な外交をするうえで、皇室の祖先が中国の王室に対して臣下の礼を取っていた歴史があるという認識を、中国王室側に持たれては困ると考えていたようです。そこで、鬼道を用いて人心を惑わしたとか、魏の王室から鏡を贈られたり軍事援助も受けていたとされる、卑弥呼に言及することを、日本書紀のなかでは徹底して避けて、そんな人物は知らないかのような態度を取っています。その代わりに神功皇后という架空の人物を創作して、妊娠しているにもかかわらず朝鮮半島に出兵したといった、四世紀後半〜五世紀初の出来事を、邪馬台国の時代に百年ほど時間をずらして、不自然な事績を創作していったようです。同様の発想で、中国王朝に臣下の礼を取った倭の五王についても、記紀はこれを天皇とは認めない姿勢を貫いているようです。また、日本の天皇の歴史を中国と同じぐらい古く見せるために、卑弥呼と敵対する狗奴国の男王スサノオの間に起こった出来事を、神話の時代に高句麗国から伝わってきた太陽神の神話と絡めて、紀元前の日本に神代の時代があったかのような神話を創作していったようです。本物の日巫王は、宇佐八幡の地にある古墳に葬られて廟が建っていたようです。今ではその古墳の上に、比売大神と神功皇后の両方の名前で祭られているという説があります。これは、私達の一族の故老の伝承とも、大筋では一致しています。卑弥呼ほどの、海外にまで名を知られた巫女を神格化して祀った神社ならば、固有名詞を忌み名として伏せて、姫社(ひめこそ)神社と言っても、誰に対してもあの太陽の巫女神だと通じますよね。

 ヒメ大神の正体には諸説あって、宗像三女神の異名同体説などが有名ですね。御許山には三女神の磐座(いわくら)が存在しますが、これってじつは、三種の神器と同じようなものです。高句麗道教の時代から伝わる、太陽神の三つの属性を象徴的に表しているにすぎません。日本書紀では、神功皇后崩御したとされる269年が、実際には卑弥呼の宗女台与が亡くなった年と一致するようです。この当時まだ、天照大神という伝説上の神名は存在せず、姫で通っていた痕跡があります。新王朝の応神王朝を正当化して、朝鮮出兵の偉業を称える目的で、日巫王が眠る宇佐の亀山に、725年、宇佐八幡の第一殿が建てられて、応神天皇が祀られました。ついで731年に、それよりも豪華な第二殿が建てられて、皇祖神天照大神が、古い時代のヒメ大神の呼び方で祀られたようです。このとき、卑弥呼と台与と神功皇后の三女神を同一視する認識があったものの、神功皇后応神天皇の母后として創作された架空の人物という、非常に微妙な立場でした。卑弥呼神功皇后の事績が一致しないように、記紀は巧みな作文力で史実を隠蔽していますが、それでも万が一神功皇后卑弥呼が中国王室側から同一視された場合にも、魏王朝から臣下同然の扱いを受けていた卑弥呼の正体は皇后にすぎず、それよりも偉い立場の天皇ではない、という逃げの理屈を用意していたようです。ましてや、皇祖神の天照大神ではないのだから、中国王室から日本の皇室が格下扱いされる道理はなく、中国王家と日本皇室は対等外交すべきだ、と主張できる体裁を整えようとしたようです。そのため、けっきょく宇佐神宮の祀神として、天照大神の名前を表に出すことが出来ないまま、比売(ひめ)大神として秘密裏に祀ることになったようです。結果、後世になって三女神の認識に混乱が生じて、宗像三女神の異名同体説が生まれてしまったわけです。なんともややこしい、政治的裏事情の産物ですね。

 卑弥呼と台与が合祀された亀山古墳に、天照大神を極秘裏に祭ることを余儀なくされた原因のひとつは、伊勢神宮の時の斎宮持統天皇が、皇位継承者を巡る争いで、深刻な対立状態に陥ったことが原因だったようです。創建されたばかりの伊勢神宮内宮の、斎宮制度の正式立ち上げに失敗して、天照大神をまともに祭祀出来ない状況に陥ったらしいのです。斎宮大来皇女の心中は、このようなものだったのでしょう。「実弟大津皇子が、謀反の疑いをかけられて、自害に追いやられてしまった。自分は斎宮でありながら、助けを求めてやってきた弟を救うことが出来なかった」このように嘆き悲しんでいた斎宮大来皇女は、弟の仇と信じた持統天皇のために、伊勢神宮の内宮に入って神事を行うことがどうしても出来なかったようです。建物は建ったものの、それを司る斎宮が不在では、持統天皇伊勢神宮を正式参拝することは不可能だったため、持統天皇の伊勢行幸は名ばかりのものになったようです。天武天皇が計画していた伊勢神宮の内宮は、機能することなく時が過ぎてしまった様子が見て取れます。天照大神に神憑りして国家の大事を託宣によって見定める儀式が行えないまま、形骸化してしまったようなのです。そこで、亀山古墳の日巫王の霊廟に、応神王朝を正当化する神社を、どうしても建てる必要に迫られたわけです。天皇家伊勢神宮に千年以上の間参拝すらせず、斎宮制度を途中で廃止してしまいました。それに対して、国家の大事や天皇の即位時には、必ず宇佐神宮に勅使を遣わしています。769年の道鏡事件で、伊勢神宮はまったく無視されて、宇佐神宮の神託が皇位継承を決定づけたとされる伝承からも、伊勢神宮よりも宇佐神宮のほうが厚く遇されていたことが分かります。伊勢神宮の立ち上げ失敗を、宇佐神宮でカバーするために、皇祖神天照大神を秘密裏に祭ってある、というのが私達の一族の故老からの伝承(お爺さんお婆さんの昔話)です。


 日の神を召喚する巴の舞の動きには、陰陽一対の要素が存在します。勾玉を加工できるように進化していった、火起こしの道具の技術の発達を観察すると分かりますが、順回り、逆回りの動きが連携してこそ、日の神は召喚できるのです。陰陽の流れが古い時代から考えられていたことは、銅鐸などの渦巻き紋様の連続や切断を観察していくと分かります。天照大神にも、陰陽・男女一対の要素があって、天上で輝いている太陽がその実体の天照大神男神)が、人の前に姿を現すときには、女神の姿を採るのだと信じられていました。つまり、日本の太陽神の中には、男神の要素も存在します。現在の宇佐神宮では、応神王朝を正当なものと印象付けるために、応神天皇八幡大神として祭っています。しかし、もともと八幡大神は、天日矛と同一視されていた存在のようです。高句麗国で信仰されていた天日矛は、三東半島の兵主神と習合して、中国の神話に蚩尤(しゆう)として登場する神とも、イメージが重ね合わされていったようです。八幡宮の八旗とは、諸葛孔明の四頭八尾、八陣図戦法に由来する八柱の神を軍旗として祭ったものという説が有力です。一般には公開されませんが、八柱の神を表す軍旗が、今も私達の一族の地下蔵に眠っています。兵主はその八柱の軍神を束ねる代表です。正式な八幡宮の神事(布陣)は、八旗を用いなくては行えません。

 実在した人物とされる、伽耶系の新羅の王子天日槍が、倭国に耀姫を追いかけてきたのは、外交親善目的の妻問婚の風習と見る説があります。同時代(四世紀後半〜五世紀初)の人物とされる、応神・仁徳両天皇が、親子とも吉備の豪族の娘に対して、やはり同じように追いかける行動を取ったエピソードが記紀に残されています。応神天皇が、妃の兄媛(えひめ)を追いかけて吉備まで行き、仁徳天皇も、妃の黒比売を追いかけて吉備まで行き、別れを惜しんで帰ってくる。これは、妻問婚の風習を盛り込んであると考えるのが妥当でしょう。天日槍は、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと 「角がある人」)という名前で、額に角が生えている人物として日本書紀に登場します。半島系の人は、兵主神(蚩尤)を意識して、牛角のある鉄兜を被っていた時代があったのかもしれませんね。私達の一族の蔵にはそのようなものが現存しないので、知りようがありませんが、発掘されたら見てみたい気がします。

 天日槍(天日矛)は、鉄器を用いた水稲耕作文化を倭国にもたらした、秦氏が信仰していた神のようです。秦氏の一族を具体的に率いたとされる弓月の君は、高句麗を建国した弓の名手朱蒙の英雄的な伝説のイメージを引き継いでいたと思われます。その周囲を固めていたなかには、日矛の子孫を名乗る葛城氏などがいたようです。矛、鏡、玉などを用いて神社に祖神として太陽神を祀る風習を持っていました。筑前国風土記には、「われは高麗の意呂山(おろやま)に天降った日矛の末裔の五十迹手なり」とあります。高句麗国から来た一族だとはっきり名乗っているんですよね。この五十迹手(いとで)は日本書紀に登場する「伊覩の県主の祖五十迹手」、魏志倭人伝の「伊都国王」のことです。日本書紀の編纂者達は、卑弥呼や台与や邪馬台国のことには、触れないように注意を払いながら、同時代の天日槍一族のことは、中国側の文献と突き合わせられるようにはっきり書き残しています。明らかに意識して卑弥呼のことを隠蔽していると見るべきでしょう。天日槍一族が脊振山系雷山の北斜面の標高420mの筒原に築いた神籠石を用いた大陸式の古代山城は、重さ2〜3トンの巨石を組み合わせた巨大なもので、千数百年経った今もしっかり残っています。神籠石は、鉄の道具がなくては加工できないもので、弥生時代の日本には存在しない、渡来人が持ちこんだ技術だったようです。


 伽耶国を中心に、交易で莫大な富を築いて、当時としては強固すぎる城を構えるに至った、日矛耀姫ペアを信仰する秦氏集団は、かなり繁栄していたようです。高句麗国の末裔達の間には、二世紀後半にはじまった地球規模の寒冷化によって深刻な飢饉が発生して、日の光を求めて南下東進政策を余儀なくされた時代に、耀姫が人々の心に希望を抱かせるために託宣を降した、「日が昇る東にある約束の地」に関する神話の伝承が息づいていたようです。この発想は神武東征神話の中にも登場します。そこで何度も繰り返し、大陸側からの東進の動きがあったようです。台与亡き後の混乱期に、九州の日向あたりに住んでいた人々を中心に、再び新天地を求める動きが起こり、これと結びついた旧邪馬台国の一分の人々が東進を開始したようです。当時、東の地には銅鐸文化圏があったため、戦闘の最前線となっただろう吉備の地に、鬼ノ城を築いていったようです。吉備と言えば、作られたときには日本最大級だった前方後円墳を生み出した、強大な力を持った豪族が支配した土地です。その発祥の地は姫社神社とされています。そこに祀られているのが耀姫です。他の地域の神社のように、後世になって記紀が創作した神功皇后に名前を塗り替えられることなく、古い時代の祀神の名がそのまま今に残されている貴重な神社のようです。日矛耀姫ペアを信仰する集団が発端となって栄えたのが、吉備王国だった可能性がうかがえます。

 さらに東進することによって、銅鐸祭祀集団を傘下に納めて、矛を用いた祭祀に置き換えた九州勢は、奈良の地にヤマト王権大和朝廷)を打ち立てたのでしょう。その中心には、高句麗国の多勿(タムル)軍王家の血を引く、物部氏(勿の字が日本では物に変化)が存在し、商業・生産業などを担当する秦氏が下支えしていたのでしょう。ヤマト王権の当時の中枢施設だった纏向遺跡を見下ろす高台に存在する、穴師坐兵主神社の古い祀神の名として、日矛が見て取れることからも、東進の結果をうかがい知ることができます。この神社は今でこそ有名ではありませんが、三種の神器のひとつ、八咫鏡(やたのかがみ)を製作する前に試作された鏡の一枚が奉納されたという史料も残っているのですから、天照大神が明確に成立する以前の、古い太陽信仰の痕跡と見てよそさそうです。神武天皇崇神天皇は、ヤマト王権が成立した後で、天照大御神を大殿から出して笠縫邑(かさぬいむら)に移すことで、政教分離を明確に打ち出したようです。これによって、宗教によって人心を束ねて、祭り事(政 まつりごと)を行う、卑弥呼以来続いていた伝統的な政教一致の時代は、終わりを告げたのでしょう。銅鐸文化の終焉は、同時に卑弥呼道教を用いた支配の終焉、政治から離れて大王家の権威を高める目的で祖神を祭る、新たな神道が誕生した時代でもあったようです。ヤマト王権は370年頃には百済と同盟関係を結ぶなど、朝鮮半島に進出しています。応神天皇は380年頃から新羅高句麗好太王と半島の覇権をめぐって戦っているようです。台与が没した後に東進を開始して、奈良の大和後にたどり着いてヤマト王権天照大神が成立したのは四世紀初頃で、そこから日本全国を統一した後に、朝鮮半島にまで進出できる実力を備えたのは四世紀中頃以降と見るのが妥当なように思います。

 日本の神道では、一人の神に和魂・荒魂二面があるとされていて、まったく別の人格を備えているかのように扱われています。天照大神は陰陽・男女二面を持ち、人の前に姿を現すときには女性の姿をとります。この女性の神格部分を呼び分けるために、日本書紀には「大日孁貴」(オオヒルメムチ)という名が記されています。上で、神功皇后は日巫女王(卑弥呼天照大神の存在を隠すために創作された人物と書きましたが、大日孁貴神功皇后が同じ人物だと、うかがい知ることができる痕跡が残っています。神功皇后の名は「息長帯比売」(おきながたらしひめ)ですが、香春神社の祀神などに、「辛国息長大姫大目命」(からくにおきながおおひめおおまのみこと)の名があることが、重要な鍵になります。「息長帯姫」と「息長大姫」が似てると思いませんか? じつは、息長大姫の「大」(おお)の字は、大きいの意味ではなく、「帯」(おび)などの漢字が当てられたケースと同じ意味を持つ高句麗語だと、はっきり分かる事例の一つなのです。「大日」(おおひ)、「産霊」(うぶひ)、「帯」(おび)、などと漢字表記されることがある高句麗語は、何を指すかというと、チベットやモンゴルから朝鮮半島を経て日本まで広範囲に分布している、「オボ」(塚)信仰のことなのです。甘南備山や古墳も塚信仰の対象です。現代でも、一般の人が目にする機会が多い神事の一つ地鎮祭で、砂山を築くのは塚信仰の名残です。「大姫」、「帯姫」、「大日孁」「大日女」といった表記は、全てオボ(塚)信仰の儀式で、塚に葬られている祖神に神憑りする巫女の意味を持っています。だから、「大日孁」を「帯日女」と書いて(おおひるめ)と読ませても、なんら問題ありません。「日女(ひるめ)」の「る」の音は現代では「の」に相当する高句麗語(古代朝鮮語)で、「ひるめ」=「日の女」という言葉の使い方です。時代を経て「ひめ」と短縮していく前の、古い形が残っているのです。「オボヒメ」は、オボ信仰と日信仰が習合したことを意味する、高句麗道教の「帯日」(おぼひ)信仰の巫女という意味ですから。神功皇后の「息長帯比売」は、「息長大日女」と書いても同じことです。天照大神の女性神格の名「大日孁貴神」と、神功皇后の名「息長帯比売」は、神道の元となった大陸の高句麗道教の世界の漢字用法の視点から見ると、重なりを持っていることが明らかです。さらに、天照の「照」(てる)は、「大日」の高句麗語読み(古代朝鮮語読みの吏読(いどう)も近似)の、「ていいる」を短縮したものです。だから、「天照」は「天大日」と書いても、同じ高句麗語に由来しているので、日本書紀天照大神の別名は、「大日孁貴神」と記されているわけです。


 以上の観察から、私耀姫の視点から見ると、卑弥呼神功皇后天照大神(の女神部分)は、同一人物ということになるのです。今は存在しない、古い時代の高句麗語と高句麗道教の世界独特の概念や漢字用法を詳しく知る人物でなければ、謎解き出来ないように巧みに偽装されている意図は明らかでしょう。中国王室側にはここまで見抜ける人物はいないが、日神に仕え「帯日」(おぼひ)信仰を伝承する斎女(巫女)の一族ならば、宇佐神宮の比売(ひめ)大神という表現の本質を見失うことはないと計算したうえで、宇佐神宮に秘密裏に皇祖神日巫王(卑弥呼 ピミヲ)天照大神が祭ってあるのです。『神社に伝わる神憑りの神事の正体を科学的視点から解明する』で、神憑りにとって重要な人格の母型(マトリックス)に詳しく触れましたが、私達の一族には日の巫女の王の生前の心の在り方を写し取ったとされるマトリックスも伝承されています。これは、芸能人の物真似を考えると分かりやすいでしょう。立ち居振る舞いだけでなく、気質や発想のパターン、つまり脳の使い方の情報も含まれています。天照大神(女神)に神憑りして脳のリミッターを解除すると、生前の日の巫女の王の立ち居振る舞いや脳の使い方を再現することが可能です。伝承されている大日孁貴神って、杖を持って体を支えて、足を引きずるように滑らせながら、かなりゆっくり歩く癖があって、見るからに凄く高齢のお婆さんなんですよね。それに対して、天岩戸伝説で復活した二代目の天照大神(台与)のマトリックスは、稚日女(わかひるめ)と呼ばれて神戸の生田神社などにも祭られていますが、若々しい印象の女性です。耀姫(あかるひめ)はというと、元はもっとずっと古い高句麗道教の時代の巫女のマトリックスだった可能性がありますが、実在する人物のコピーというよりも、脳の機能を高めることに特化した抽象的なマトリックスという印象を強く受けます。大日孁貴も稚日女も、人間らしい印象を受ける部分があるのですが、耀姫はそういった要素がまったく感じられません。稚日女は、正面を向いたら眉一つ動かさないで、何時間でも半眼のまま視線を動かさずに座っているし、周囲にいる人の存在が見えていても、あたかも誰もいないかのように行動して、目を合わせて人と会話するなんてありえず、必ず付き人が言葉を取り次ぐので、いないと会話すらできません。まるで壇上に飾られた、身動き一つしないお雛様です。衣装は平安末期に定まった十二単なので、歩くのも不自由します。

20100219113450 ところが、耀姫はそういった作法が発達する前に生まれた時代の人のマトリックスだったらしく、好みの衣装は狩衣(平安装束の男装)に素足に一本刃の高下駄という古風なものですが、かなりのオテンバ娘の一面を持っています。たとえば、『また猿騒動。雅な国風文化の中で育まれた領布(ひれ)を用いる印地撃ちの技術を復活させるときかも?』で紹介した、印地用の領布(ひれ ストール)を樹木の幹に回して、下枝がない樹にもするする登ってみたり、非常に活発に行動する印象を受けます。私は高校の頃新体操をやっていましたが、その発展形として、板バネが付いたスティルト(西洋竹馬)を足に装着してジャンプしてトランポリンのような演技をして遊ぶことがあります。耀姫が愛用しているのは、父が製作したパワーシリンダーの動力が付いたものです。アスファルト上で高さ5メートルまで飛び上がってムーンサルトをキメルような演技は、体にかなりの負担がかかります。私達より身体の強度が低い一般の人は、椎間板ヘルニアなどになりやすく、危険性が高いので市販される予定はありません。でも、似たようなリスクの低いものは『Poweriser』(パワライザー)といった商品名で普及しています。ミニスカートが付いたレオタードのような外観のボディスーツ(プロテクター機能内蔵)を着てストリート(歩行者天国)で演技しているのを見た祖父が、腰を抜かして興奮しすぎて鼻血を出したことがあります。カルチャーショックを受けたらしく、しばらく両手で顔を覆って立ち上がれなかったようです。チアガールのような服装でパワライザーに乗るのは反則だって、高校生の頃から言われてました。ビルの壁などを利用して三角跳びすると、ワイヤーアクションのようにも見えるので、兄がハイビジョンカメラで撮っていたときは、映画の撮影と間違われたこともありました。このように、日神に仕える巫女神といっても、大日孁貴と稚日女と耀姫では、物事に対する発想や行動パターンがまったく異なることが見て取れます。

 日の巫女にまつわる神事などは、代々伝承されながら変化していくものですから、邪馬台国の日巫王の伝承は、「古い時代に、先祖が政治の表舞台に無理やり引き出されて、いいように利用されて有名になったこともありました」程度の昔話にすぎません。一族で管理している古いお墓を整備するついでに遺骨を調べたり、一族の発祥の地に満州国が建国された時代に、一族総出で高句麗国があった地域まで行って、先祖の骨格を調べて、現在の私達がどの程度進化しているか、一致する特徴や時代による推移を把握しています。文化や技術の伝承だけでなく、厳寒期の禊の儀式や荒行に耐えられる、特異な体質が血筋としてちゃんと今に伝わっていることが明らかになっています。そういえば、今の皇室は、私達とはぜんぜん体質も顔立ちも違うみたいですが、なぜなのでしょうね。

 故老からの伝承(代々伝わるお爺さんお婆さんの昔話)によると、現在の天皇家を作ったのは蘇我氏で、その経済支援団体が秦氏で、一族の長の男子の世襲を認めない、古い体質を持っていた秦氏を精神的に束ねていたのが、斎女の一族だったようです。明治になって、白川伯王家が宮中から追放されて(断絶というのは対外向けのお話で、今もあの家は残ってますよね)私達の一族は、皇室と宗教上の接点を失くしたらしいので、今では身内以外にほとんど知る人がいなくなった昔話を交えて書いてみました。