勾玉・巴紋の祖型となった弥生時代の渦巻き模様と火(日)の文化。

 木に錐もみすると、摩擦熱で火が起こります。古い時代の木製品は風化して残りづらい可能性もあるため、何万年前からどのような道具が火を起こすために使われてきたのか、正確に調べるのは大変でしょう。火起こしの道具の進化の歴史を観察すると、まず、1.ただの木の棒を掌で挟んで木の板の上で回転させて摩擦熱で火を付ける、きりもみ式火起こし。つぎに、2.紐を木の棒に巻きつけて往復運動で回転させる、ひも錐式火起こし。3.紐の代わりに弓の弦を用いる、弓錐式火起こし。最後に、4.独楽のような形の錘が付いた、まい錐式火起こし。この順序で発達していったようです。これとは別系統で火打ち石がありますが、今回のテーマから外れます。硫黄を用いて着火しやすくする工夫は、アイヌが古くから持っていた痕跡があります。弥生時代になると、硬いヒスイなどの宝石を削って、細い木の筒の錐と研磨剤を組み合わせて糸を通す穴を開けて、勾玉などを整形する加工技術を持っていたことが分かります。硬い石にも穿孔できる錐もみの技術を、ほぼ完成の域に高めていたことが伺える、加工場の跡が見つかっています。


 現代人は摩擦熱の発生原理を知っているので、なぜ木の棒を回転させると熱くなって火が付くのか、容易に説明できます。ところが、物質が持つ熱の正体が原子や分子の振動と知らない弥生時代の人々にとっては、摩擦による発熱はまったく理解できない神秘的な現象だったことでしょう。当時の人々にとって、錐を左右交互にグルグル回して摩擦することは、火(日)の神を招く神秘的なオマジナイ、神聖な神事のひとつだったようです。

 古墳内の壁画や、銅鐸の表面にしきりに描かれる渦巻き(太極文様)は、右回しと左回しが一対になっていることがあります。陰陽二つの力の循環を表していているのですが、これは火起こしの錐の動きに対応しています。火の神を招く神秘なパワーをイメージしたものなのです。渦巻きの力の流れを重視した文様は、弥生時代までは盛んに描かれていましたが、古墳時代になると急に使われなくなります。これは、銅鐸祭祀社会の消滅と関係が深いように見えます。中国の史書にこうあります。「楽浪海中、倭国有り。分れて百余国を為す。歳時を以て来り献見すと云う。」じつは、この倭国の紹介とワンセットになっている、もう一つの勢力についての記述もあります。「会稽海外、東是人有り。分れて二十余国を為す。歳時を以て来り献見すと云う。」ここに出てくる、倭国と同列に扱われている、東是人の二十余国を連合したグループとは一体何のことでしょうか。アイヌの国とは考えにくいと思います。これが書かれた弥生時代の日本を観察すると、ある不思議なことに気がつきます。じつは、日本列島には、北九州を中心とした銅矛祭祀文化圏と、滋賀県のあたりを中心とした銅鐸祭祀文化圏があったことが分かっています。もちろん、銅の武器を用いて祭祀するのは倭国ですが、これに対して銅鐸祭祀は、東是人の国の風習だった可能性がかなり高いのです。東是の是は「テイ」と読んで端という意味に受け取れるので、東の端にいる人達という意味になります。その東にまだアイヌの人々が住んでいるわけですが、中国人の目から見たら倭国のそのまた東の国名もはっきりしない国々は、世界の東の端という認識になってもおかしくありません。つまり、倭国とは異なる銅鐸祭祀文化圏の国々と考えると、地理的にも一致するのです。この、東是人の銅鐸祭祀文化圏の消滅とともに、弥生時代が終わっているような印象もあります。もしも、神武東征神話のような出来事があったとすれば、この時期ではないかと推理する人もいます。

 記紀は、銅鐸祭祀文化の存在を知りながら、故意に隠蔽しているフシがあります。銅鐸祭祀の国々の中心地は、天の安川(現滋賀県野洲川)のあたりにあったらしく、その地域で大量の銅鐸が発見されているようです。記紀の編纂者達は、神武東征で滅ぼした東の連合国家の名を、最後まで明らかにしたくなかったのかもしれません。その代わりに、蝦夷討伐といった言葉が出てきますが、蝦夷アイヌではなく東是人の残党だった可能性も捨て切れません。銅鐸絵画を観察すると、絵を見る順序がまったく定まっていないように見えます。文字を持った人々ならば、絵を描くときにも一定の見る順序を定めて描きます。そういった慣習をまったく持たない人々の手による作品となると、中国の漢字文化圏接触を持って名が知られていた倭国ではなく、ほとんど接触が希薄で国名も分からない、ただ東の端に住んでいる人々としか書きようがなかった、国々で作られた可能性が高そうです。文字を持たない、はるか昔に滅んだ国で、しかも記紀が故意に隠蔽している機密情報となると、現代人が今からその存在を復活させることは、不可能な印象があります。だって、情報を隠蔽したのは、かの有名な伊賀忍者軍団を創設した、遁甲(とんこう 忍者の兵法)の使い手天武天皇の可能性が高いからです。一説によると、遁甲は敵から姿を眩ますスパイ技術とされていますから、徹底した情報操作が行われている可能性を考えなくてはなりません。でも、記紀が一切触れずに葬り去ろうとしたその文化圏の存在は、地面の下に埋めてあった銅鐸が掘り起こされたことで、表に出てきてしまいました。古墳の中にも渦巻き紋様は残っているし、そこから生まれて弥生時代に流行していた勾玉などの装身具も、古い墓の中から大量に出てきています。陰陽左右一対の渦巻き模様は、古墳時代に入るとあまり使われなくなったということは、倭国の文化ではなく滅ぼされて歴史の彼方に葬られた国々の文化だった可能性もあります。それでも完全に消えることはなく、後には神社の神紋としてよく知られる巴紋などへと発展していきました。陰陽魚太極文様(韓国の国旗にも使われている)もその一つの例でしょう。


 火起こしの神事は、本来の火を起こす行為から離れて、さらに発展していったことがうかがえるものも出土しています。火の神のパワーを用いて神の意思を知る、占いの神事の登場です。弥生時代の灼骨卜占(しゃくこつぼくせん)は、鹿や猪の肩胛骨(けんこうこつ)を用いて行われるもので、今もうちの神社では、春になって行われる山の神の神意を問う非公開神事の一つとして伝承されています。鹿や猪の肩甲骨が占いに使われる理由はこうです。鹿や猪は山の神のつかいです。そして、骨は弥生人にとって魂の拠り所という意味を持っていました。人が死ぬと、肉が腐って落ちるのを待って綺麗に洗骨してから埋葬しました。これは、永遠不滅の骨にこそ魂が宿っている、という考え方があったからです。神様のつかいである鹿や猪の魂が宿っている肩胛骨に、火(日)の神の力が宿った燃える錐を使って神秘的な陰陽左右一対のリズミカルな回転パワーを加えていき、焼けた骨にできる亀裂を神の意思と読み取ってその年の農作物の出来具合を占うのです。山の神は鹿や猪を人の元につかわし、人の側は火の神のパワーを用いるという、神と人が歩み寄る関係が見て取れます。

 渦巻き紋様の歴史は古く、青森県野辺地町向田の向田18遺跡で、2002年10月に出土した縄文時代前期末(約五千五百年前)の朱色の木製漆器が発見されて、巻き貝が装飾として使用されていたことが判明しています。対して太陽信仰の現れである、弥生時代の貝輪(かいわ)と呼ばれる装身具には、太陽光を表す放射肋(ほうしゃろく)と呼ばれる放射線を配置する表現様式があったことが分かっています。それが古墳時代になると、8つの放射線や16の放射線で構成された車輪石の形へと変化し、最終的に皇室のシンボル菊の御紋章へと行き着きます。太陽信仰が盛んだった縄文時代は、\が朝日を表し、○が昼間の太陽を表し、/が夕日を表すルールで紋様が出来上がっているので、古い時代の人は、南を向いて立って太陽光線を見ていたことが分かります。日の出の朝日と昇った太陽と日没の夕日は、それぞれ別の神として扱われていた痕跡も認められます。陰陽道という言葉がありますが、陰陽(双極)の考え方は古墳の壁画や銅鐸の表面に刻まれた\や/の一対になった線、右巻き左巻きの渦の繋がりなどの上に見て取ることができます。

 民俗学者達の解釈を紹介してみましょう。縄文・弥生時代の人の世界観は豊かだったのか、渦巻きのイメージは蛇がとぐろを巻く姿と繋がっていたようです。白蛇信仰については、『神社に伝承されている結界の防疫技術』のなかで、注連縄のルーツが蛇の抜け殻だったと解説している部分を参照してください。鏡(かがみ)の「かが」という言葉は蛇(かが)の意味で、「み」は身(み)を表すので、鏡は蛇身(かがみ)のことという説もあります。現代人の発想では、いきなり太陽信仰と蛇のイメージは繋がりそうもありませんが、弥生時代には火(日)の力が渦巻きの図形で表現される慣習があって、蛇がとぐろを巻いた姿も渦巻きで重なることが分かってくると、イメージの連想が可能になってきます。もちろん、現代人の「蛇が怖くて気持ち悪い」というイメージを持っていては、弥生時代の人々の心の文化は見えてきません。弥生人の気持ちになって、「美しい白蛇(青大将のアルビノ)は神様のおつかいで、ネズミを食べて追い払って穀物倉庫を守ってくれる大切な存在」と考える発想を持つ必要があります。日本人の心の原点を探る旅は容易ではありませんね。千数百年前と現代では、人々が持つイメージが大きく変化しているようです。話を戻して、民俗学者達の解釈をそのまま信じるなら、蛇身は太陽の化身で、鏡も太陽の化身なので、両者は同じ「かがみ」という言葉で呼ばれた可能性があるようです。神社の御神体とされる甘南備山の、鏡岩と呼ばれる太陽光線を反射する岩は、甘南備山をとぐろを巻いた蛇と見立てれば、蛇の目の位置に相当します。お正月に神棚にお供えする鏡餅も、じつは蛇がとぐろを巻いた姿を模った蛇身(かがみ)餅だった可能性があるそうです。

 八百万の神を信じる日本の神道は、さまざまな信仰を自由に習合していく性質を持っています。インド発の仏教とも自然に融和してしまったぐらいですからね。火の神の信仰と山の神のおつかいに対する信仰が習合して卜占が生まれ、太陽信仰と蛇信仰が習合して甘南備山の鏡岩の信仰になったり、鏡餅の信仰が生まれるといった、さまざまなイメージの繋がりかたがあるようです。

 

 勾玉は、古墳内の壁画や、銅鐸の表面などに、しきりに描かれる渦巻き紋様と同じ、火(日)の神のパワーを意味する、回転系のアイテムです。神道の太陽信仰と、勾玉や神社の神紋の巴紋様が、どう繋がるのか、弥生時代から千数百年経って、よく分からなくなっている人が多いようです。巴が描かれた神紋を持つ神社の神主さん達ですら、「武具の鞆の形としか伝承されてない」と話したり、「水流が渦巻く形で、防火のシンボル」と正反対の説を出してみたり、「八幡宮の神紋」と諸説入り乱れて、けっきょく真相は分からないという反応を示す人が多いのには驚きます。「千数百年前の先祖のお墓の石室を開けてみると、ちゃんと朱色の渦巻き紋様がありますよ」と言っても、ピンと来ない人が多いようです。うちの一族が管理する幾つかの神社の神紋は、陰陽二つの渦巻きパワーを表した巴紋を採用しています。ゆみ錐式火起こし器を用いて火の神を召喚する神事が伝わっていて、火の神が宿る木の板の上には、巴紋が描かれます。紋様を描く墨に、わずかに灰を混ぜておくと、着火し易くなるといったコツがあります。紋様を描くと描かないでは、ある程度違いが認められるため、紋様が持つパワー(実際には灰のパワーですけどね)は、迷信と決め付けるものでもないでしょう(なにやら苦しい説明です.笑)。儀式をやると本当に火が付くのだから、火の神を召喚するという目的を達成出来ているので、これもいちおう迷信ではありませんね(やや強引.笑)。

 でも、骨にできる亀裂を神の意思と考えるのは、根拠のない迷信のような気がします。もしかしたら、春になるまでの間の気候変動が卜骨(ぼっこつ)の亀裂の入り方に差を生じさせるのかもしれませんが、卜占で生じる亀裂は、正直耀姫には読めた試しがなくて、気象データを参考にしながら、頭の中で自由連想して閃いたことを口にしているだけだったりします(開き直ってます.笑)。あるいは、骨の主の生前の食生活によって、肩甲骨の強度に変化が生じていて、それを見極めてその年の年間の気候を予想できるのかもしれませんが、未来予測のために必要な知識は伝承されていません。ノウハウを蓄積するのは、弥生時代の平均寿命から見て不可能だったのではないかと思います。それに、毎日の気候変動を直接肌で感じて得られる情報のほうが、鹿や猪の骨に穴を開けながら考える方法よりも、ずっと確実だと思います。こうなると、神事そのものがナンセンスということになりかねません。まるで役に立たないことをやっていたという発想で本当にいいのか、凄く疑問が残ります。

 そこで考え方を変えてみました。もしかすると、為政者が形だけ占っている姿を見せることで、祭りごと(まつりごと 政)を用いた支配体制を堅持する道具として使っていた可能性はないかと。集会の評定の結果が予め推測できてしまうと、さまざまな事前策を巡らせて、根回し工作など、悪巧みする良からぬ輩が現れることがあります。ところが、重大なことが占いで決定されるとなると、結果が予想できないので、先手を打って策を弄することが難しくなります。それだけで、政敵の動きや部下の先走りを封じることを可能にし、宮廷内の主導権を常に為政者が掌握出来る状況を作り出すことが可能になります。もしも、灼骨卜占の本当の姿が、こういった祭り事(政)のカラクリだったとすると、実用性のない迷信どころか、非常に有用な支配の道具だったことになります。残念なことに、今となっては真相を確かめる術はないようです。もしかすると、壊れていく骨のイメージを読むのは、じつは頭の体操になっているのかもしれません(笑)。いずれにしろ、卜占の結果は神憑りした人が読む(考える)ので、普通に禊をして神楽を舞って神憑りして託宣する定型的な神事と、実質的な中身はほとんど変わりません。もちろん、伝承の中で変質して今の姿になっている可能性もあるので、弥生時代そのままのものが伝わっているという、先入観を持たないほうがいいかもしれませんけどね。弥生時代は渦巻きだった図形が、今では神紋になっているのですから、後世の演出・脚色が加わっていることは間違いありません。おそらく平安末期に最終的な現在のスタイルが定まって、それ以降は変化していないものと思われます。

 春の暖かい日差しを感じながら、今年は幾つ台風が上陸してどの程度農作物に被害が出るか予言しなさいと言われても、出来ることではありません。それでも、その年度の農作業の将来設計(生活設計)の役に立つのなら、まったく意味のない事ではないと思います。未来を占う(未来に起こりそうな出来事を考える)先見性を養うことを目的とした神事と受け止めるのが妥当だろうと思います。こういった古い風習には、やはり文化を感じます。