日本神話の中に登場する 耀姫(あかるひめ)

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 日本の伝統的な文化の語り手として活動する目的でつけた、耀姫というニックネームは、古事記日本書紀の神話のなかに登場する神様の名前です。幾つかの神社にも祭られています。古事記には、阿加流比売(あかるひめ)神と書かれています。カタカナや平仮名がなかった時代の人々は、苦労して漢字を用いて日本語を音写していたことがうかがえます。

 耀姫の神話を紐解いていくと、皇室や日本人の心のルーツに辿り着ける可能性が見え隠れしています。正史の中に組み込まれて伝承されている耀姫が登場する神話は、古事記を読んでもらうことにして、ここでは、一族に伝承されているお伽噺を、手短に現代語に意訳して紹介しておきますね。昔々、アジア大陸の東にあったとある国のとある池で、人間の女性が水浴びをして遊んでいたら、太陽の光が水鏡に反射して、虹のように輝いてホトを照らしました。すると、不思議なことに女性は身ごもって赤い玉を産んだのだそうです。その玉が成長して姫になったのが、この私、耀姫なのだそうです。太陽と人間が結婚したら、玉のような女の子が生まれたという、神人婚・卵生説話があるのです。この御伽噺には続きがあって、耀姫は、やがて天日矛(あまのひほこ)という日神に見初められて、妻として仕えるようになったというのです。つまり、この神話は、太陽神に仕える斎女巫女)の一族の祖先は、処女懐胎によって生まれた神の子だったという、民族のルーツに関する御伽噺の伝承なのです。似たようなパターンの神話は、モンゴルや、扶余や高句麗があった満州地域、朝鮮半島、そして日本にも伝わっています。古事記日本書紀に書き残されるほど、昔は有名なお話だったようです。

 二つめの天日矛耀姫の神話の粗筋はこうです。耀姫に対して、天日矛が良くない言動を働いたので、怒った耀姫は「父のいる国に帰ります」と言い残して、[[日国]]へと旅立ってしまいます。天日矛は耀姫の後を必死で追いかけて、倭国に到着して帰化した、というお話です。古事記にもほぼ同じ内容の神話が記されています。この伝説のもとになったのは、おそらく2世紀後半から始まった、地球規模の寒冷化によって、大陸の満州地域にあった、扶余や高句麗といった国々で深刻な飢饉が発生して、食べ物を求めて温かい地域に難民となって移動する、南下政策を余儀なくされた出来事だったのでしょう。天日矛の言動の悪さに喩えられているのは、おそらく、寒冷化によって顕著になった、太陽の力の陰りのことだと思われます。当時も日神に仕える生き神の巫女として、耀姫が存在していたらしく、託宣の内容が今も伝わっています。意訳すれば、日の昇る方角に、祖先が住んでいた日の豊かな国があり、約束の地が存在するというものです。その言葉を信じて、希望を抱いて、暖かい日の光が降り注ぐ土地を求めて移動していった人々の憧れから、さまざまなエピソードが加わえられて、出来上がっていった御伽噺になっているのです。

 三つめの神話は、天日矛の一族が九州の地域に上陸して、次々と大陸式の強固な山城を構えながら東進の旅を続けていき、播磨南西部の秘め地(現在の姫路)の隠れ里や、丹波など、幾つかの安息の地に辿り着いて、入植を果たした、というものです。福岡県西部の雷山城などの築城を伝える故老の話と、現地の地名・地形・構築物の構造が一致します。神籠石(こうごういし)と言われる特徴のある石を並べて、その上に土塁を築く方式の山城で、このような石を切り出すには鉄の道具が必要になります。弥生時代の当時、日本で鉄の道具を扱える技術を持っていたのは、渡来系の人々に限られていたようです。天日矛説話が伝承されている地域が、秦氏が居住していた地域とほぼ一致する結果を得ているので、うちの一族が弓月の君に率いられて東進していき、大和朝廷内では秦氏を名乗ったという故老からの伝承は、かなり正確なもののようです。言い伝えどおりの場所に神社なども残っているので、史実に近い形で今に伝わっていると思います。高句麗からは、何度も繰り返したくさんの人々が関東地方に移住した記録も残されていて、うちの一族の故老の話と、他のルートで伝わっている史料がほぼ一致します。百済高句麗の順で国が滅んだあと、日本に亡命した王族は、武蔵国高麗郡を作って治めていたことも分かっています。

 これに対して、よく分からないのは、皇室のルーツであるはずの、神武天皇の東征神話のほうです。確実に足跡を残して移動していった天日矛一族の東進と比較すると、不透明な印象を強く受けるのです。おそらく、神武の一族は百済の王族時代を経てから日本に入植したと思われるのですが、記紀の編纂者が故意に神話的脚色を施して、神代の時代の出来事として年代推定が困難な状況を作り出してみたり、事実を隠蔽したような印象を受けます。うちの一族が管理する古いお墓の中に、伝説どおりの品が納められた状態で見つかったりもしているので、天日矛の一族の日本国内での動きは、物証面からも裏付けが得られています。対して、神武東征神話は、ストーリーと突き合わせられる物がほとんど見つかっていないようです。箸墓古墳などが、一番重要な位置に存在するので、何か決め手となる品が出てきそうな気がするのですが、残念ながら、宮内庁が発掘調査に否定的な態度を取っているらしく、今のところ掘って確認することができないようです。

 ここまでをまとめると、今から千数百年前に地球規模の寒冷化が起こって、扶余や高句麗で飢饉に苦しんだ人々が、日神に祈りを捧げてもたらされた託宣を信じて、日の光が豊かな理想郷を求めて、いくつものグループに分かれて、何度も日国まで東進した。天日矛神を信仰する一族の希望を繋ぐ予言を伝承していった巫女が神格化された姿が耀姫だった、ということになります。太陽信仰そのものは、それ以前の縄文時代から、アジアの広い地域で存在していたようです。たとえば、日本各地に残る縄文時代磐座(いわくら)遺跡にも、冬至の日の出の方角に向いた祭壇が設けられていることがよくあります。冬に向かって衰えてきた太陽の光が、再び力を取り戻したことを祝う神事が伝わっていますが、これと対応する祭壇が縄文時代から日本各地にあったことから、太陽信仰が盛んだったことがうかがえます。扶余・高句麗地域では、神道と言わずに道教と呼んでいたのですが、その時代から三種の神器を用いた神事が存在していました。また、高句麗軍のシンボル三本足の烏は、神武天皇の旗印だった三本足の八咫烏(やたがらす)と特徴が一致するので、神武東征した人々は、扶余・高句麗百済と移動して倭国に入植たと見て、間違いなさそうに思います。

 天日矛神は、現代の日本ではあまり目立つように祭られていません。おそらく、日本に古くからあった太陽信仰と習合して、天照大神改名されているのでしょう。奈良にある大和朝廷の最重要施設のひとつ、纏向遺跡を見下ろす丘の上には、穴師坐兵主神社が建っています。そこから出てきた史料から、以前は天日矛が祭られていたことが分かっています。うちの一族が中央集権国家大和朝廷を支える一氏族だったという、故老の伝承に対応する痕跡が幾つか認められるのです。おそらく奈良の大和の地で、さまざまな氏族が持っていた太陽信仰が習合して、天照大神へとまとめ上げられていった時代があり、大和の地から伊勢へと移されて、今の伊勢神宮の形になったと考えるのが、一番自然なようです。御先祖様達は、耀姫が示したある託宣を境にして、突然大和朝廷の権力闘争から身を退きました。日本各地に分散したと伝えられています。その後、たとえば、葛城のうちの一族からは、役の行者小角などを輩出していったらしく、周期的に伝説の中に顔を出すこともあったようです。

 天日矛と耀姫のペアは、古い時代に祭られたものが、形を変えていったようです。いつのまにか、東進した時代の苦労が忘れ去られていき、乱暴な扱いを受けたケースもあるようです。後から登場して信仰が盛んになった神功皇后を祭るため、耀姫を他の場所に移したケースも見つかっています。やがて、仏教や陰陽道修験道が習合する時代になると、伝承文化の蓄積量が増えて、各分野を役割分担しないと全てを伝承しきれなくなっていきました。

 代々うちの一族の男衆は、修験道の修行などと称して、山野を歩き回って、あまり家に居着かないライフスタイルを取ってきたので、今でも、母系の継承を行う風習が残っています。意外に聞こえるかもしれませんが、男尊女卑なんて発想は、古風な文化を受け継いできたうちの一族では、考えられません。天日矛信仰が生まれた高句麗道教の時代から、形式的には男性を立てながらも、じつは女性のほうが強い発言権を持っている状況は、あまり変わっていないようなのです。